(%緑点%)前期講座(歴史コース)の第9回講義の報告です。
・日時:5月26日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:記紀で読む大和の神話伝説〜神武東征と大和の神々
・講師:来村 多加史先生(阪南大学教授)
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○『古事記』
■太安万侶の序文
「臣 太安万侶が申しあげます。天地万物が元始の状態ですべてのものの形が定かでなかったころのこと。天と地が分かれ、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすびのかみ)・神産巣日神(かみむすびのかみ)の三神が出現された(造化三神)。次いで、陰と陽とに分かれ、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の男女二神が現れ、万物を生み出す祖神となられた。・・・(略)」
・続いて序文に記される物語…「イザナミノミコト」・「イザナギノミコト」の黄泉の国での物語。日月は天照大御神(左目)と月読命(右目)らの神々の誕生。天照大御神の天岩戸の神話。スサノオノミコトによる大蛇退治の神話。天照大御神の孫であるニニギノミコトの天孫降臨。…(略)」
○『古事記』中巻に記す神武東征伝説
■兄弟の遷宮…16年以上に及ぶ旅の始まり
神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびのみこと)(イワレビコ)(神武天皇)は、高千穂宮で、兄の五瀬命(いつせのみこと)と談義し、天下を治める地を探し求めることにした。
・日向の高千穂宮より発し、豊国の宇佐に出て、筑紫の岡田宮(北九州八幡の岡田神社)に移り、1年間滞在。→その後、阿岐のタケリノ宮(広島県府中市の多家神社)に7年間、→吉備の高島宮(岡山県南区の高島神社)に8年間滞在したあと難波(なにわ)にめざした。
■難波での頓挫
吉備を出た兄弟の軍勢は浪速の渡(なみはやのわたり)(大阪市中央区高麗橋付近)をへて、そのまま東進して日下(くさか)(東大阪市日下)に宿り、楯津(たてつ)に布陣したが、生駒山の孔舎衛坂(くさえざか)を越えようとした五瀬命は大和側の登美の那賀須泥毘古(ながすねびこ)が放つ矢にあたり負傷。やむなく和泉国へ回り、五瀬命は茅渟海(ちぬのうみ)で血を洗ったが、亡くなる。イワレビコは、さらに航路をとって紀伊半島の南へ周り、熊野に上陸した。
■熊野から宇陀へ
イワレビコが熊野(和歌山県新宮市)に入ると、荒ぶる神の化身である熊が現れるが、熊野の高倉下(たかくらじ)から差し出された神剣でこと(ごとく切り倒し、軍勢も士気を取り戻した。天照大御神はさらに八咫烏(やたがらす)を遣わして、熊野山中の先導を務めさした。イワレビコの一行は、吉野川流域で国つ神の子孫たちと出会い、宇陀の穿邑(うかちむら)に出る。…宇陀には兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)という兄弟がいて、兄宇迦斯はイワレビコに反目し、八咫烏に鏑矢を射て脅し、大殿を造って「押機」(おし)(部屋に入った者を圧し殺す)という罠を仕掛けて、イワレビコを待ち受けた。一方、弟宇迦斯が兄の策略を漏らす。兄宇迦斯はイワレビコの家来である道臣命(大伴連(むらじ)の祖先)と大久米命(久米直(あたい)の祖先)に脅され、自分の仕掛けた押機に入れられ、潰されて息絶えた。その遺体を切り刻んだところを「血原」(ちはら)(室生川の血原橋あたりか)という。
■八十建(やそたける)の戦い(『日本書紀』に詳述)
宇陀の高倉山に登ったイワレビコを待ち受けていたのは、八十建であった。八十建側の精鋭軍は磯城(しき)(桜井市外山)を本拠地とする兄師木(えしき)と弟師木(おとしき)の兄弟で、兄はイワレビコに逆らい、弟は帰順。兄師木を斬って八十建を倒し、さらに兄・五瀬命を亡き者にした登美の那賀須泥毘古を打ち破り、赤膚山・和珥(わに)・長柄と葛城の土蜘蛛(土着の豪族のこと)を退治して大和を平定する。
■初代天皇が即位
この後、国つ神の系統から正妃をとり、畝傍山東南の橿原に都を造営し、辛酉年に即位した。後世、淡海三船(おうみのみふね)により神武天皇と諡(おくりな)された。
*(注)淡海三船:奈良時代の学者。神武天皇から元正天皇までの漢風諡号を撰進した。
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**あとがき**
・イワレビコ(神武天皇)の東への旅路は、16年以上かかっている。
・各地には、いろんな豪族がいるので、情報を得ながら進路をとっていることがうかがえる。。
・紀伊半島を迂回するルート、熊野から大和へ向かう紀伊山地の険路は、困難きわまるものだった。