芭蕉『奥の細道』の旅空間(六)

(%紫点%)前期講座(文学・文芸コース)(3月〜7月)の第8回講義の報告です。
・日時:6月4日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:芭蕉『奥の細道』の旅空間(六)〜笠島・武隈の松・宮城野・壺の碑〜
・講師:根来 尚子先生(柿衞文庫 学芸員)
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*前回までの復習*
◇第一回…旅立ち〈3月27日(陽暦5月16日)〉、江戸・深川から「千住」、「草加」→◇第二回…「室の八島」、「日光」→◇第三回…「那須野」、「黒羽」、「雲岩寺」→◇第四回・・・「殺生岩・遊行柳」、「白河の関」→◇第五回…「須賀川」、「安積山・信夫の里」、「飯塚の里」⇒■第六回〈白石5月3日〜壺の碑5月8日(陽暦6月24日)〉
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(%エンピツ%)講義の内容
○第六回…飯塚の里から「笠島」、「武隈の松」、「宮城野」、「壺の碑」
(一)笠島(かさしま)(宮城県名取市)
(概説)「白石の城下町を通り過ぎ、笠島の郡に入った。藤原実方(さねかた)の墓はどの辺かと、人に尋ねところ、ここからはるかに見える山のすぐそばの村里を蓑輪・笠島という。近頃の五月雨(あみだれ)のために道が悪く、体も疲れているので、遠くから眺めるだけで素通りした。その際に、蓑輪(みのわ)・笠島という地名は、五月雨の季節に縁があるなと思い、次の句を詠んだ。」
「笠島は いづこさ月の ぬかり道」 (芭蕉)季語:さ月(夏五月の句)
*「笠島は」の句の解釈…笠島は是非とも訪ねたいところである。しかしながら五月雨にぬかる悪路ゆえ、どの辺なのかと見やるだけで通りすぎねばならぬことが残念だ。
*芭蕉の初案では上五「笠島や」であった。『おくの細そ道』執筆時に推敲して改めたと思われる。

(二)武隈の松(たけくまのまつ)(宮城県岩沼市)
(概説)「岩沼に宿をとった。この岩沼に古歌で有名な武隈の松がある。二木(ふたき)の松ともいうように、根は生えぎわのところから二本に分かれて、昔の姿を保っていた。…能因法師は「松はこのたび来てみると、跡かたもなくなっている」と詠んでいる。松は、ある時は切り、ある時は植え継いだりなどしたと聞いていたが、今は千年の樹齢にふさわしい姿で、まことにすばらしい松の様子であった。」
「桜より 松は二木を 三月越し」 (芭蕉)季語:季語の無い無季の句。夏。
*「桜より」の句の解釈…挙白の餞別句に詠まれた遅桜は、私を待たずに散ってしまっていて、松の方が待ってくれていたのを、三月越しに見ましたよ。この句は、挙白(芭蕉の弟子)が餞別の句を贈ってくれたので、返礼の挨拶の句。 挙白の句−「武隈の 松見せ申せ 遅桜」−。)

(三)宮城野(みやぎの)(宮城県仙台市)(右の資料を参照)
(現代語訳)【名取川を渡って仙台にはいる。ちょうど端午の節句で、菖蒲を軒にさす日であった。宿をとって、四、五日滞在した。この地に画工加右衛門(かえもん)とい者がいる。少し、風流を解する者だと聞いたので、知り合いになった。ある日、加右衛門が、古歌に詠まれた場所を案内してくれた。つつじが岡に来たが、馬酔木の花が咲いていた。また、日の光もさしこまないほど茂っている松林に入って、「木の下」と説明する。薬師堂や天満宮などを拝んで、その日は暮れた。加右衛門は、紺色の染緒をつけた草鞋(わらじ)二足を餞別としてくれた。」
「あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒」(芭蕉)季語:あやめ草(夏)
*「あやめ草」の句の解釈…加右衛門から贈られた草鞋の緒に、端午の節句に用いる菖蒲(しょうぶ)を結びつけて、旅の前途の無事を祈った。(菖蒲はマムシ除けになるという)。贈り主に対する感謝の気持ちをこめた挨拶の句となっている。

(四)壺の碑(つぼのいしぶみ)
(概説)「壺の碑は、市川村多賀城(多賀城市)にある。壺の碑は高さが六尺余り、横が三尺であろうか。この碑には≪この城は神亀元年(724)に、鎮守府将軍の大野朝臣東人が設置し、天平宝字六年(762)、東海東山節度使の恵美朝臣朝獦が修理して、この碑を建てた≫。昔から詠まれている名所は、多く語り伝えられているが、山が崩れたり川の流れが変わったりして、道筋が新しくなり、石は埋まって土中に隠れ、木は老木となって枯れ、若木と交代している。…なのに、この壺の碑は、間違いなく千年の昔を伝える記念物であって、碑に感動して歌を詠んだ古人の心がよくわかる。これも、旅の利得の一つであり、長生きのおかげで、旅の苦労も忘れて感動し、涙も流れるほどであった。」