奈良時代の万葉世界−大伴家持のデビューも視野に

(%紫点%)前期講座(文学・文芸コース)の第10回講義の報告です。
・日時:6月25日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:奈良時代の万葉世界−大伴家持のデビューも視野に
・講師:市瀬 雅之先生(梅花女子大学教授)
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○『万葉集』巻六について
・巻六は、「雑歌」(ぞうか)の巻。(雑歌:公的な場で披露されたさまざまな歌)
・時代としては、養老7年(723)から神亀年間を経て天平16年(744)頃にまたがっている。歌人は、笠金村(かさのかねむら)、山部赤人、車持千年(くるまもちのちとせ)といった宮廷歌人を歌を中心にして、大友旅人や山上憶良の作も少数ながら収録、また大伴坂上郎女や少年期の大友家持もまじっている。
・聖武天皇即位前後の吉野行幸の歌に始まり、紀伊・播磨などに行幸があった際の従駕の歌(天皇の行幸に従って自然の景観を賛美する歌)が多い。
・聖武朝(724年〜749年)は花やかな時代(奈良の大仏の建立など)の反面、天災・疫病、権力闘争で不安要因を種々抱えていた。…聖武天皇は、その治世の間に4度も都を遷している(謎の彷徨)。

養老七年の吉野行幸(右の資料を参照)
★【長歌】「み吉野の激流のほとりの三船の山に、瑞々しい枝をさし延べて生い茂っている栂(とが)の木、その栂の木のとがという名のようにつぎつぎと代々の天皇がこのよう万代の末までもお治めになる。み吉野の秋津の宮は、国つ神の神々しさのせいかまことに尊い。国柄が立派なせいか誰も見たいと心引かれる。山も川も清くさわやかであるので、なるほど、遠い神代以来、ここみ吉野を宮所とさだめられたのであろう。」(巻六、907)(笠金村)
・吉野は、天武天皇が壬申の乱で勝利を収めるもとになった土地であり、その後、天武天皇を始祖とする皇統の聖地とされた。久々の男子の天皇である聖武天皇(首皇子)の即位を控え、養老七年に元正天皇が吉野の離宮に行幸された。
-(注)み吉野…ミは美称。
-(注)長歌・反歌…長歌は「五・七」を二度以上繰り返し、最後を「五・七・七」で収める形式が基本となる。十数句から二十数句のものが多く、長歌の後に添える短歌のことを「反歌」と呼ぶ。
【反歌二首】
★「年のはに かくも見てしか み吉野の 清き河内の 激つ白波」(巻六、908)(笠金村)
(意訳)(毎年来て、こうして見たいものだ。吉野川の清い河内の渦巻き流れる白波を)
-(注)河内(こうち)…谷あいの平地。
★「山高み 白木綿花に 落ち激つ 瀧の河内は 見れど飽かぬかも」(巻六、909)(笠金村)
(意訳)(山が高いので、白木綿花(しらふゆ)のように激しくほとばしり落ちる滝の河内は、いつまで見ていても見飽きない光景だ。」

○天平五年、大伴家持十六歳の歌です。(右の資料を参照)
★「月立ちて ただ三日月の 眉根掻き 日長く恋ひし 君に逢えるかも」(巻六、993)(大伴坂上郎女)
(意訳)(ほんの三日の月のような細い眉を掻きながら、長く恋い慕っていたあなたにお逢いできました。)
★「振り放けて 三日月見れば 一目見し 人の眉引き 思ほゆるかも」(巻六、994)(大友家持)
(意訳)(振り仰いで三日月を見ると、一目見たあの人の引かれた眉がおもわれてなりません。)
・家持16歳の時の作で、年代の明らかなものとしては家持の最初の歌(デビュー作)。
・同じく三日月を詠んだ叔母の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえいらつめ)の歌に続いて載っていることから、これは家持が彼女によって作歌の手引きをしてもらった時の歌ではないかという見方もある。
-(注)三日月を見て、女性の眉を思い出すのは、この当時の貴族女性が三日月のような形に眉を描く化粧をしていたから。

○巻六では盛大に祝福されていますが〜橘諸兄を祝った歌(右の資料を参照)
★「橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜置けどいや 常葉の木」(巻六、1009)(御製歌)
(意訳)(橘は実まで花までその葉まで、枝に霜が置いても いよいよ栄える木であるぞ。)
・天平8年(736)11月、葛城王(橘諸兄)が母方の姓橘氏を継ぐことが認められ聖武天皇が橘氏を祝って作った歌。
-(注)「権力争い」…長屋王の変(729年)〜藤原4子に謀反の疑いをかけられ、長屋王(天武天皇の孫)自害。→藤原光明子は聖武天皇の皇后になる。→藤原4子、天然痘で病死(737年)…朝廷の有力者が天然痘で亡くなり、この政治空白期に登場したのが橘諸兄。しかし、藤原仲麻呂が光明皇后の寵愛を受けて新興してくると、756年政界から退く。