(%緑点%)前期講座(歴史コース)(3月〜7月:全15回)の第14回講義の報告です。
・日時:7月14日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:渡来系氏族の活躍
・講師:佐藤 興治先生(奈良文化財研究所名誉研究員)
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○はじめに
日本列島には韓半島(あるいは中国大陸)から多数の人々が渡来してきた。彼らは、日本各地に定住し、稲作を始め、鉄や銅の金属器の生産、織物技術、土器(須恵器)生産などの技術を伝えている。また、古代には漢字・紙の製法・暦法・五経書などの技術と学問が渡来の技術者・学者・僧侶などによってもたらされている。
○ 『日本書紀』などによる渡来・帰化の記事
(1)大きな勢力を保った秦氏と漢氏
★秦(はた)氏…初期の有力渡来系集団で、弓月君を祖とし、応神朝に渡来してきた伝承を持つ。絹・綿・糸の生産に従事する部民を配下に、大きな経済力をもった。秦氏は全国に分布し、中心は山城国葛野郡。
・『日本書紀』応神天皇十四年条
「この年弓月君、百済より来帰す。…己が国の人夫百二十県を領いて帰化す」。
(意訳)(この年、弓月君が百済からやってきた。…私の国の、百二十県の人民を率いてやった来ました)。(注)弓月君:秦始皇帝の子孫で、秦の民を率いて帰化。秦氏の始祖説がある。
・『日本書紀』雄略天皇十五年条
「秦の民を臣、連の分ちて随意に駆使せしむ。…多数の民を率いて調庸の絹を奏献上し朝廷に充積す。これによって太秦という。」。
(意訳)(秦氏の率いていた民を臣連(おみむらじ)に分散し、それぞれの願いのまま使われた。…租税としてつくられた絹を献って、朝廷にたくさん積み上げた。よって姓を賜ってうつまさ(うず高く積んだ様子)(太秦)といった。)
★漢(あや)氏…秦氏と並ぶ渡来系の大豪族。東漢(やまとのあや)氏と西漢(かわちのあや)氏がある。東漢氏は大和高市郡を本拠とし、多くの技術集団(土器製作、機織り技術、金属器の生産・加工など)をもった。西漢氏は河内地方に居住していた。
(2)主な渡来系氏族
★文(ふみ)氏…西文(かわちのふみ)氏と東文(やまとのふみ)がある。西文氏は応神朝に百済からきた王仁(わに)博士の後裔と伝える。文筆・外交・軍事などに活躍した。
★高志(こし)氏…百済王子王爾の後裔と伝える。僧行基はこの出身。
★村主(すぐり)氏…古代朝鮮で族長をさす村主の称号に由来する氏族。摂津、和泉、山城、大和に分布する。
(3)帰化士族への対応
・「帰化」するということは、具体的には「籍(戸)貫に付す」すなわち戸籍に登録して本居を定めることとなる。在地化の手段として、あちこちに「生活の場」、「生産の場」をあたえて定住させ、「名前と爵位を与える」ことが行われている。
−669年、百済の男女二千余人を東国に居らしむ。(関東地方の開墾)
−685年、大唐人、百済人、高麗人の147人に爵位を賜う。
−715年、新羅の74家を美濃国にうつし、蓆田郡をつくる。
−733年、武蔵国新羅人男女52名、請により金姓とする。
−758年、大和国の高麗男女96人、近江国の1155人、請願により桑原直(くわばらのあたい)の賜姓を許される。等々。
・「新撰姓氏録」…平安京・五畿内居住の古代氏族の系譜を集成したもの。弘仁六年(815年)の姓氏1182のうち、帰化系は373氏あり、漢族179氏、百済119氏、高句麗48氏、新羅17氏、任那10氏あり。「姓」(かばね)は氏の尊卑や公的地位を示す役割。代表的なものは、臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・公・直(あたい)・史などがある。
○仏教の受容と造寺
仏教が日本に入ってきたのは、欽明七年(538)と伝えられ、百済の聖明王の代に仏像と経典が贈られたきたことに始まる。当初は、〝蛮神”(ばんしん)と言われた。→崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部守屋の争い。
◆飛鳥寺造営
・飛鳥寺は、蘇我稲目の子馬子により建立された蘇我氏の氏寺(元興寺(がんこうじ)・法興寺とも号し、仏法が初めて興された寺の意)。「飛鳥」という地名が定着するようになると飛鳥寺と称せられるようになった。
・『日本書紀』によれば、飛鳥寺の建立の経緯は次のようであった。崇峻元年(588)法興寺の造営を開始。→推古元年(593)仏舎利を塔刹柱礎中に置く。→推古三年(595)高麗僧慧慈(えじ)、百済慧聰(えそう)等来朝、飛鳥寺に住む。→推古十三年(605)造仏工鞍作鳥に命じて丈六仏像(銅の仏像と繡仏像)を造る。この時、高句麗の大興王が黄金三百両を貢上する。
(注)鞍作鳥(くらつくりのとり)(止利仏師)…司馬達等(しばたっと)(百済からの渡来人の系列)
◆大仏造営
・天平十五年(743)聖武天皇は大仏建立の詔を発布。→745年紫香楽宮から平城京に還る。→天平十九年(747)、大仏本体の鋳造を開始。→天平勝宝元年(749)僧行基を大僧正。同年、陸奥国守百済王敬福より黄金900両が献上。→752年、大仏開眼供養の聖武上皇、孝謙天皇行幸。
・造仏のリーダは、渡来系の仏師国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)
・行基(668〜749年)…渡来系氏族高志氏の一族。14歳の時出家し、山林での苦行の後、里に下り、民衆布教を畿内で活動。併せて、池や堀川、布施屋、「狭山池」、「宇治橋」など多くの社会・土木事業を成し遂げた。しかし、寺院以外での布教は国家弾圧の対象となった。のち、一転して、77歳で大僧正となる。
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**あとがき**
・日本列島は、四、五世紀は安定した時代。不安定な政情の韓半島・中国大陸からみれば、日本列島は「安宿(アスカ)の地」。…「安宿」→「飛鳥」、「明日香」
・初期の仏教は、外国語が必須で、そのため、渡来僧を頼りにしていた。大仏造営における鋳造技術は、渡来人の技術者が必要、等々。…古代において、海外から渡来した人々とその後裔が、日本の歴史と文化の発展に寄与した役割は大きい。