(%紫点%)H27年後期講座(文学・文芸コース)(9月〜1月:全13回)の第1回講義の報告です。
・日時:9月3日(木)午後1時半〜3時40分
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:『徒然草』〜心と言葉〜②達人と奇人
・講師:小野 恭靖先生(大阪教育大学教授)
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**前回(第一回)の復習**
『徒然草』〜心と言葉〜は、5回シリーズの講義です。第一回(H27.3.19)は、①兼好法師とその時代。『「徒然草』は、作者:兼好法師。鎌倉時代末期の元徳二年(1330)から翌年にかけて成立したとされる随筆。序段を含めて244段からなる。兼好の思索や雑感、逸話が記される。
・序段−「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を…」
・第243段(八つになりし年)、第11段(神無月のころ)、第13段(ひとり灯のもとに)、第117段(友とするにわろき者)、第39段(ある人、法然上人に)、など取り上げて講義。
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(%エンピツ%)講義の内容
第二回 『徒然草』−達人と奇人−
◇ 「達人」(抜粋)
■第九十二段 (弓術の師の教訓) (*右の資料を参照)
(訳)【初心者は、二本の矢を持ってはいけない。二本の矢を持つと、最初の矢で、射損じて後の矢で的を射当てるだろうと期待して、最初の矢にいい加減な気持ちが生まれる。…二本の矢であっても、師匠の眼前で射るのだから、最初の一本をいい加減にしようとは思っていない。二本あっても最初の一本は必死で射る。しかし、自分でそれを意識しなくても油断はほんの少しの余裕の中におこるもので、師匠はそれを見抜いているのである。…この戒めは、弓を射ることばかりではない。そのほかすべてに通じることだ。』
・「初心の人、二つの矢を持つことなかれ」。一時の怠りが、そのまま一生の怠りになる。
■ 第百九段 (木登り名人)(*右上の資料を参照)
(訳)【木登りの名人が、人を指図して、高い木に登らせて梢(こずえ)を切らせたとき、たいそう危なそうに見える高所にいる間は何も言わないで、下りるとき軒(のき)の高さくらいになったときに、声をかけ「怪我をするな、用心して下りろ」と言った。そこで、見ていた私が、「こんな低い所まできたら、飛び下りても下りられるだろう。どうして、わざわざ、そんな注意をするのか」と言ったところ、「高いところで枝が折れそうな危ないところにいる間は、当人が恐れておりますから、こちらから注意しません。怪我は安全な所になって必ずいたすものでございます。】
・事故は油断したところで起こるものだという、木登り名人の教訓。
*「達人」は、上記の段のほかに、百十段(双六−負けじと打つべし)、百八十五段(双なき馬乗りの話)、百八十六段(吉田と申す馬乗り−慎重・用心が大切)、第百八十七段(万の道の人−その道の専門家にまなべ)など講義。
◇ 「奇人」(抜粋)
■第八十八段(他人に指摘されても時代錯誤の伝承に気付かない愚かで滑稽な本の持主の話)(*右の資料を参照)
(訳)【小野道風が書き写したという『和漢朗詠集』を持っている人がいたので、ある人が(藤原公任)が編集したものを、それより以前の小野道風が書いたというのは年代が違うでしょう。そんなことはありえない。」と言ったら、するとその人は、「だからこそ世にまれな貴重品なのです」と、ますます大切に持っていた。】
・小野道風(894−966年)(平安時代の能書家)。『和漢朗詠集』は藤原公任(きんとう)(966−1041年)撰。…藤原公任は小野道風が死去した年(966年)に生まれている。
■ 第六十段(仁和寺真乗院の盛親僧都、好物の芋頭を食べながら談義)(*右上の資料を参照)
(訳)【真乗院に盛親(じょうしん)僧都という、えらい知識僧がいた。芋頭(いもがしら・里芋)が好きで多く食べた。談義(説法)の席でも高く盛り上がるように盛って、膝もとに置いて食べながら書物を読んだ。病気になっても、療治だといって、部屋に閉じこもって、いい芋頭を択んで特にたくさん食べて、どんな病気でも治したそうだ。人に食べさせることはない。…(中略)、この僧都は、容貌もすぐれ、力も強く、大食で、書を書くことも上手であり、学問・弁説もすぐれて、宗派ですぐれた僧侶で仁和寺の中でも重要人物あったが、世間のことを取るに足りないと思っている一癖も二癖もある者で、何でも勝手きままで、いっこうに人に従うということもしない。…(中略)、自分の食べたいときには、夜中でも夜明けでも食べて、眠くなると、昼でも鍵をかけて自室に籠もるというわけで、どんな大切なことがあっても、人のいうことことなど聞き入れない。目が覚めたとなると、幾夜も寝ないで、詩歌などを口ずさんで歩き、世間並みでないところがあるが、人に嫌われることもなく、すべて何事にも勝手きままを許されていた。この上なく徳が高かったからであろう。】
*「奇人」は、上記の段のほかに、第百四十四段(栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに)、第二百三十六段(丹波に出雲というところあり)などを講義。
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**あとがき**
兼好法師は歌人であり、古典学者でもあり、内容は多岐にわたる。草庵にこもって本を読み、ものを書く、物静かな世捨て人ではない。庵を出て京の町中を歩き、人々を観察し、世間の噂に聞き耳を立てることもしばしばである。また、兼好は仁和寺があるところに居を構えたためか、仁和寺に関する逸話が多いことも特徴である。