(%緑点%)H27年後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全15回)の第2回講義の報告です。
・日時:9月8日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:大坂夏の陣
・講師:天野忠幸先生(関西大学非常勤講師)
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−前回(H27.3.17)の復習「大坂冬の陣」−
[関係年表]
・1588年(慶長3):秀吉逝去(享年62)、秀頼(満5歳)が家督相続
・1600年(慶長5):関ヶ原の戦い
・1603年(慶長8):家康、伏見城で将軍に就任
・1605年(慶長10):家康、秀忠に将軍職を譲る
・1611年(慶長16):秀頼・家康、二条城の会見。*(1611〜13年)加藤清正、浅野幸長逝去
・1614年(慶長19):「大坂冬の陣」(10月〜12月)。*7月:方広寺鐘銘事件
・1615年(慶長20);「大坂夏の陣}(5月)
・1616年(元和2):4月、家康逝去
【大坂冬の陣】(1614年10月〜12月)
大坂城は、難攻不落の城。城は幾重にも堀に守られ、その外側に広大な陣地を持っていた。さらにその周りを、全長8kmにも及ぶ(惣堀)と呼ばれる外堀で囲んで守りを固めていた。大坂城に立てこもる大坂方の主力は浪人たち。7月方広寺鐘銘事件。10月豊臣方、諸国に兵を募り、兵糧を大坂城に搬入。幕府方は20万の大軍。11月18日大坂茶臼山(大坂城の南約4km)に家康着陣。11月19日の「木津川口の戦い」で始まる。冬の陣で最大の戦いは、11月26日「鴫野・今福の戦い」で、豊臣方の後藤基次・木村重成らが大坂城を出てそこまで駒を進めてきたのを、徳川方の上杉景勝・佐竹義宣らの軍勢と激戦。12月4日「真田丸の戦い」では、徳川方は大敗し、城攻めを断念。12月8日家康は和議を提示。威嚇するために12月16日から大砲による砲撃作戦。…12月23日から和睦による堀の埋め立て。
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(%エンピツ%)講義の内容
−「大坂夏の陣」−(1615年5月)
◆「冬の陣」〜和睦の意味〜
①《惣堀埋め立て問題》−徳川方が騙しうちにしたのか
・(従来の通説)「徳川方は、和睦条件を無視し、外周の堀だけを埋めるはずが、強行して一挙に内堀まで埋め立てた。」
・豊臣方で二の丸、三の丸の破却することが合意しており、家康の騙しうちではない。
・豊臣方が和睦条件を履行しないので、徳川方の外様大名が工事を強行。惣堀問題は豊臣方の過失、徳川方が不信感を持ったのが原因。
② 《牢人問題》−豊臣方は新規に牢人を募集
・徳川方は情報収集が豊富←京都所司代の板倉勝重、大坂城に間諜(スパイ)。
・板倉勝重の報告(3月5日、3月12日)…大坂城に堀や柵を設置、兵糧・材木の買入、新規に牢人を募集、本丸では火薬を調合など。
・思惑の違い。対等和睦の豊臣方×勝利した徳川方。
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◆「夏の陣」への動き
○徳川方−進む開戦準備
和睦から4か月後、家康は西へ向けて進軍。
・4月4日:家康が婚儀(徳川義直と浅野氏)に参列すると称して駿府を出陣(事実上の出陣)
・4月10日:家康が秀頼の大和移封(国替え)と将来の大坂復帰及び城内の牢人の追放などを提案
・4月18日:家康が二条城に入城
*4月上旬には、西国の福島氏、島津氏、大村氏に命令あるまで待機を指示(豊臣方に味方することを警戒)
○豊臣方の動き−時間稼ぎを図る上層部、開戦を望む牢人衆
豊臣方は再戦必至とみて、武器・弾薬・兵糧の集積など準備。
・4月5日:秀頼が大坂城を出陣、阿倍野・住吉・茶臼山・四天王寺を巡視。(先鋒)が後藤基次(又兵衛)・木村重成、(本隊)が千成瓢箪を掲げる秀頼、毛利勝永。(殿(しんがり))が長宗我部盛親と真田信繁(幸村)。(城の守備)が7手組・大野治長。
・4月9日:穏健派の大野治長の暗殺未遂事件→家康はすぐに情報をキャッチ。
*豊臣方は3派に分裂していて、1枚岩とはいえない。
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◆各地の戦い
★5月6日「小松山・道明寺の戦い」−さすがに難攻不落の大坂城も、堀を埋められたら、城を打って出る作戦しかない。徳川方は大和方面から郡山、国分を経て、大坂に向かってくることが予想されるので、大和から河内に出てくるところを待ち受けて、これを壊滅さする作戦。道明寺(藤井寺市)は大坂城の東南約20キロに位置している。この場所で、5月6日、徳川方の水野勝成、本田忠政、松平忠明、伊達政宗、松平忠輝らの3万五千余の軍勢と、後藤基次(又兵衛)を大将とする二千八百余が激闘。(後藤基次は約束の時刻に道明寺周辺に到着したが、後続の真田・毛利の両軍が濃霧によって予定時間に間に合わなかったので、自軍だけで敵にあたる。⇒10倍の敵を半日の間食い止めた後藤隊。)…基次は戦死。
★5月6日「八尾・若江の戦い」−道明寺の北方8キロほどの八尾(八尾市)・若江(東大阪市)でも激戦。豊臣方は長宗我部盛親、木村重成が徳川軍を待ち受けていた。徳川方先鋒.の井伊直孝と戦った木村隊が敗北し、木村重成が戦死。盛親は重成戦死の知らせを受けて、孤立を恐れ大坂城に退く。かなりの激戦で、両軍の被害は相当なものであった。.
★5月7日「天王寺・岡山の戦い」−最終決戦。大坂方の善戦で、乱戦となる。≪真田信繁が家康の本陣に突入。(五月七日に御所様の御陣へ、真田左衛門かかり候て、御陣衆追ちらし討捕り申し候。『薩藩旧記』)−徳川軍の旗本衆も逃げ出し家康も一時は死を覚悟したほどであった。≫…当初は互角の戦いを展開していたが、午後3時頃までには、大坂方は各戦線で敗北し、名のある武将はみな戦死。
*大坂城落城−午後4時頃、裏切り者が大坂城に放火、午後5時頃、二の丸が陥落。秀頼・淀殿・大野治長ら32名が自害。
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**おわりに**
○落ち武者狩り
秀頼自害の後も、徳川方は秀頼の遺児をはじめ、将兵の残党を厳しく捜査・処刑。
・源義経の例と同様に幕府が全国支配を強化する名目に(仮想敵を作って、全国支配を強化)
○諸大名が牢人衆を賞賛…牢人衆の家臣、子や娘らが徳川方に仕官している。
○徳川方の論功行賞…関ケ原の戦いの後のような、大判振る舞いはなかった。
○大坂の陣の意義(徳川による全国政権化)
全国政権化①:近畿にまとまった幕領、経済都市大阪を掌握(日本の東西をおさえる)
全国政権化②:幕末に至るまで徳川家の西日本最大の軍事拠点としての大坂が誕生
⇒関ケ原の戦いよりも大きな意義。
大坂冬の陣・夏の陣は、戦国の終わりを告げる最後の戦いと位置づけられる。