中原中也と〈京都〉−詩との遭遇、恋と友情−

(%紫点%)H27年後期講座(文学・文芸コース)(9月〜1月:全13回)の第3回講義の報告です。
・日時:9月24日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:中原中也と〈京都〉
・講師:瀧本 和成先生(立命館大学教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
詩人・中原中也(なかはら ちゅうや)の略歴(右は中也の18歳頃の写真)
・明治40年(1907)、山口市の湯田温泉に生まれる。(裕福な医者の長男)
・山口中学入ると短歌に熱中、在学中に友人と歌集を出版。
・大正12年(1923)16歳:山口中学を文学にふけって学業を怠り落第、京都の立命館中学に転校。両親と離れて京都に下宿。青春の2年間を京都で過ごした。
〈後年、中也は、「生れて初めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり」(「詩的履歴書」)〉
〈新しい扉を開く二人の人物に出会う。3歳年上の劇団員・長谷川泰子と画家志望の富永太郎〉
〈ダダイズムに傾倒。フランス象徴派の詩人ヴェルレーヌやランボーを学ぶ〉
・大正14年(1925)18歳:…(舞台は京都から東京に移る)。泰子を伴って上京。小林秀雄と出会う(のち泰子との三角関係)。富永の病死と泰子との別れ。結婚後の子どもの誕生と死。
〈1928年(昭和3):初期作品の代表作『朝の歌』を発表。1929年同人誌「白痴群」を刊行。【1934年(昭和9)第一詩集『山羊(やぎ)の歌』刊行】。ランボーの詩の翻訳にも注力〉
・長男の死去によるショックで、1937年1月精神が不安定になり入院。10月、30歳の若さで死去。
【第二詩集『在りし日の歌』(没後刊行)】

■中原中也の詩作活動
(1)第Ⅰ期《中学時代(1920〜23年)》…短歌創作
近代の多くの詩人と同じように、中也も短歌から創作の道に入った。大正9年(1920)13歳の頃、短歌を作り始める。
≪防長新聞」歌壇欄に掲載された中也の歌(抜粋)≫
「菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ」
「芸術を遊びごとだと思ってゐるその心こそあはれなりけれ」
「ユラユラと曇れる空を指してゆく淡き煙よどこまでゆくか」

(2)第Ⅱ期 《.京都時代(1923〜26年)》…短歌から詩創作へ
「ダダイズムとの出会い」
「1923年秋の暮、丸太町の古本屋で高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』を読む。中の数編に感激。」(「詩的履歴書」より)。…既成の秩序や常識に反抗し破壊するダダイズムにひかれ、「ダダ手帖」と呼ぶ創作ノートを作り、ダダ詩を書き始める。
〈ダダイスト中也の詩〉(抜粋)
「ダダ、つてんだよ。/木馬、つてんだ/原始人のドモリ、でもよい」(「ノート1924」)
「親の手紙が泡を吹いた/恋は空みた肩揺った/俺は灰色のステツキを呑んだ/足 足/足 足/足 足/足/万年筆の徒歩旅行/電信棒よ御辞儀しろ」(「ノート1924」)
・ダダイズムは既成の文法を拒否した。そこに和歌ではできない新しい表現方法と意味を発見した。(瀧本先生)
◆画家富永太郎と出会い、「フランス象徴派のヴェルレーヌやランボーを学ぶ


(3)第Ⅲ期 《新しいスタイル(1926〜1937年)》
◆代表作「朝の歌」(『山羊の歌』「朝の歌」)
天井に 朱(あか)きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)い
手にてなす なにごともなし。(以下省略)

・1926年の作で中也初期の代表作。五七調の14行詩。ダダ克服のために苦心した。『山羊の歌』と『在りし日の歌』の詩は、この「朝の歌」からはじまる。
・中也みずから「「朝の歌」にてほぼ方針たつ」(「詩的履歴書」より)

◆代表作「生ひ立ちの歌」(*右上の詩を参照)
・初出、1930年4月発行の「白痴群」第6号。制作は1930年1月〜3月か(中也23歳)。
Ⅰ−幼年期から青年期も終わりまでの時期が雪の降りざまにたとえられている。「幼年期」両親の慈愛のもとにあったこの時期は、真綿のように暖かく降る雪。「少年時」父への反抗心から自棄に陥り、霙(みぞれ)のように冷たく降った雪。十六歳で京都に転校、十七歳で三歳年上の女と同棲、十八歳で上京、女と別離、霰(あられ)のように荒々しく降った雪。二十二歳泥酔の日々、雹(ひよう)のように痛く降った雪。二十三歳、見通しもきかないひどい吹雪となった。二十四歳、「いとしめやかに」なった。
Ⅱ−雪は花びらのようにふり、なつかしく手を差し伸べるかのように降る。家族も友人も愛人も、思えばその情に「背き」はなかった。

中原中也ー詩の特質と魅力
(1)そのスタイル
・新しい言葉の組み合わせ(ダダイズムの影響)
(例)「安値いリボンと息を吐き」、「観客様はみな鰯」
・独特な色彩表現(時代の色・心の色)
(例)「茶色い戦争」、「汚れつちまった悲しみに/今日も小雪の降りかかる」
・独特な擬態語
(例)「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」
(2)新芸術
詩(芸術)における一瞬性(はかなさ)と永遠性を同時に存在すること認識し、表現した詩人。
◆代表作「サーカス」(*右上の詩を参照)(「サーカス」は1929年『生活者』十月号に「無題」として発表)
・戦争に茶色を連想させ、「ゆあーん ゆよーん」と擬態語でそのやるせなさを表現する。長く続く閉塞感や生の不安感の払拭は、一夜にして消えてゆく「サーカス小屋」に象徴的に集約。「今夜此処での一と殷盛(さか)り」が繰り返し表現されている。明日は跡形もなく消える運命にある存在なのである。一片の詩もまたそのような存在だと中也はとらえていたのかもしれない。美というものは一瞬にして永遠、それこそがこの時期中也が獲得した詩観、芸術観にほかならない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**あとがき**
○中原中也にとって、京都の2年間は、「出会いと飛躍の場であった」。…①詩と出会う(ダダイズムから入る)。②年上の友人(大学院生)ができ、文学と思想が深まる。③長谷川泰子との恋愛《「恋愛は人生の秘鑰(ひやく:秘密を解くカギ)である」(北村透谷)》
○中也の遺した心に響くことば
「こんな思ひをするなら、花や草に生まれたかった」
「まことに人生、一瞬の夢、ゴム風船の、美しさかな」
「昔私は思っていたものだった 恋愛詩など愚劣なものだと けれども今では恋愛を夢見るほかに能がない」
○詩人・中原中也とはどんな存在か
「中原中也は、詩とは何か、詩人とは何かということを、短い生涯のなかで一途に考えつづけた人である。詩と生活が一体である、と思えるほどに、全身で詩について考え、詩を作ったと言っていい。このような詩人は中原中也を最後に、日本にいなくなった。」
(佐々木幹郎「中原中也という詩の魂」(『別冊太陽 中原中也』2007.5)

◆当時の文壇・歌壇・詩壇の状況(1920〜1937年頃)−中也13〜30歳
①文壇…韻文から散文へ(和歌から小説へ) 坪内逍遥『小説神髄』、森鴎外『舞姫』
②歌壇…和歌から短歌へ。 1900年「明星」創刊 1908年「アララギ」創刊
③詩壇…翻訳詩→文語詩→口語詩
≪大正末年から昭和10年までの15年間は、日本の詩の言語にとって大変革の時期。文語詩が口語詩に移行する最後の段階に入っていた。また、同時期の欧米の詩が日本に入り若い詩人が自ら選別し翻訳する時期にあたっていた。≫