(%紫点%)2015年公開講座「細川ガラシャが望んだ世界」の報告です。
・日時:10月1日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(2階小ホール)(富田林市)
・演題:細川ガラシャが望んだ世界
・参加者:91名
・講師:田端 泰子先生(京都橘大学名誉教授)
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1.明智玉子の誕生
*右上は、内田青虹筆「細川ガラシャ」《内田青虹(せいこう)−日本画家。歴史人物画家)
・永禄6年(1563)、越前国(福井県)に生まれる。父は明智光秀、母は美濃国妻木家の出。「ガラシャ」はキリスト教の受洗名で、本名は玉子(たまこ)。
・この母親については、『明智軍記』は「賢女ノ名アル人ナリ」と記している。
2.玉子の婚姻
・天正2年(1574)正月、信長の命令で、明智家と細川家は「縁家」に。→天正6年(1576)、青龍寺城で細川藤孝の嫡男忠興と婚姻。同じ年16歳の夫婦。…天正7年、長女・長(なが)を生む。天正8年、長男・忠隆を生む。
・このころの玉子について、『明智軍記』は、「容色ことに.麗しく、糸竹呂律の翫びも妙」であったので舅(しゅうと)の藤孝も「一入(ひとしお)最愛の嫁」であったとある[(意訳)玉子は美人で、琴や笛の演奏が巧みであるので、藤孝は最愛の嫁としてかわいがった]。
3.織田信長の重臣−明智光秀(「本能寺の変」の前は、どうだったのか)
・永禄11年(1568)7月、室町幕府の将軍足利義昭は、美濃岐阜城に赴き、信長に謁見〈信長方の明智光秀と義昭方の細川藤孝が仲介役)。9月に信長は足利義昭を頂いて入京。
・光秀、坂本を拝領…元亀2年(1570)9月、比叡山焼打ち(比叡山は信仰の対象であり、守護の役割もしていた)。→この結果、光秀は近江国志賀郡を拝領。岐阜を本拠地とする信長は、京都の義昭の動静の監視役と近江南部の支配を光秀に任せる。
・天正2年(1574)正月、信長は「光秀を西国征将とする」と命じる。(信長家臣の中でも、光秀の能力を買っていたことをしめす。)
・天正4年安土城普請。天正5年、根来・雑賀攻め、松永久秀討伐。天正6年、大坂本願寺攻め。丹波攻略(光秀)、播磨攻略(秀吉)。…家臣は東奔西走。天正8年(1581)大坂本願寺が退城。天正9年(1581)2月、信長は京都において盛大な「馬揃え」(光秀は「奉行」として馬揃えの責任者の役)。…光秀は、忙しい日々が何年も続いていたが、信長にとって信頼の厚い重臣。
4.本能寺の変【天正10年(1582)】
・6月2日、光秀は、京都・本能寺に宿泊していた主君信長を討つ。
★信長の最後の言葉「生者必滅」(『惟任退治記』)。「是非に及ばず」(『信長公記』)
・翌3日、光秀は細川家に使者を送った。信長を討ったことを伝え、今後光秀の味方として、共に行動してほしいと申し入れた。→細川藤孝・忠興父子は断る。(細川家の記録『細川家記』には、「光秀は主君の敵(かたき)」と記されている。)
・山崎の合戦…本能寺の変から11日後、光秀は秀吉と戦った。光秀は惨敗し、落ち延びる途中、土民に襲われ命を落とした。
5.玉子、味土野に幽閉(玉子の運命の暗転)
玉子は、反逆人の娘として、人里離れた丹後の味土野(みどの)(京都府弥栄町)に幽閉された。味土野に付き従った人々は、いと・小侍従、それに数人の男性家臣であった。
☆「身をかくす 里は吉野の 奥ながら 花なき峰に 呼子鳥なく」(玉子)
(この歌は玉子が詠んだ歌であると言われる。人里離れた味土野は、身を隠すのに格好の地であるが、「花」に喩えられる喜びや楽しさのない地である。そこでは、呼子鳥〈よぶこどり−カッコウ》のように人を呼ぶように鳴く鳥の声ばかりする。)
6.ガラシャの誕生
・幽閉生活がようやく終わりをつげたのは、2年あまり後である。天正12年(1584)、秀吉が再婚を許し、玉子は宮津に帰る。
・天正14年(1586)、宮津で3男忠利を生む。8月、秀吉、九州征伐の動員発令。忠興の不在中、大坂の天満の教会を訪れ、伝道師の教示を聞いた。また侍女を通じて教理を学ぶ。
・侍女の清原いとを教会に送って洗礼を受けさせ、ついで細川邸内でいと(マリア)から洗礼を受けることで、キリスト教徒になった。洗礼名は「ガラシャ」。ラテン語で「神の慈悲」という意味である。
◆ガラシャは、キリスト教に教えついて、質問を繰り返したといわれている。(右上の『フロイス日本史』を参照)…「コスメ修道士は、これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女と話したことはなかった」。
7.関ケ原の合戦とガラシャの最期
・慶長5年(1600)6月、徳川家康が上杉景勝征討のため軍勢を率いて大坂から出陣した。この軍勢の中には、細川忠興もいた。ガラシャをはじめ、諸大名の妻たちは、大坂城下の武家屋敷に取り残されて、夫の留守を守ることになった。→石田光成は、諸大名の屋敷に使者を遣わし、妻子を人質に差し出すように要求。
・7月17日、ガラシャは「捕まって人質になれば細川家には不利となる。人質には絶対なれない。また、ガラシャの立場は、キリシタンの身ゆえに自害はならぬと、家老に命じてその手にかかり最後を遂げる」−大坂玉造の細川邸において石田勢に取り囲まれる中、家臣の手で命を絶った(38歳)。屋敷は火に包まれ、家臣も殉死。(細川家は、玉子の最後を「御義死」とたたえている。)→大坂城中ではガラシャの死をもっての抵抗に驚き、評議が変わり、諸大名の内室を人質に取ることを取りやめたという。
★「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(ガラシャ、辞世の句)
(意訳)(花は散る時を知ってこそ花なのであり、人もそうなければならない。今こそ散るときである)
*参考資料:「細川ガラシャ」田端泰子著(ミネルヴァ書房 2010年)