(%緑点%)後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全15回)の第4回講義の報告です。
・日時:10月6日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:壬申の乱
・講師:市 大樹先生(大阪大学准教授)
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(%エンピツ%)講義の内容
1.壬申の乱の本質-(日本古代史最大の皇位継承戦争)
大海人皇子と大友皇子との皇位継承をめぐる争い
667年、近江大津宮に遷都(天智天皇)。天智の皇位継承者に大海人皇子(おおあまのみこ)という同母弟がいた。ところが、671年天智は自分の息子の大友皇子(おおとものみこ)を太政大臣に任命。大友皇子の母は伊賀采女(うねめ)と呼ばれる身分の低い女性。(出自は圧倒的に大海人皇子が優位)
・671年10月17日、天智天皇から大海人皇子に譲位の意向を示される。→この動きに身の危険を感じた大海人皇子は、大友皇子を皇太子に推挙し、出家を申し出て、吉野宮(奈良)に隠棲する。
■『日本書紀』壬申紀:天武天皇が編纂を命じ、元正天皇の時代〔養老4年(720)〕に完成。中心編纂者は舎人親王。巻数30巻。天武紀のみ2巻(巻第28、第29)で、大半を壬申の乱の叙述。

2.東アジアの国際情勢
東アジアの緊迫した情勢のもとで、壬申の乱は起こっている。【660年、百済滅亡。663年、白村江の戦い(唐・新羅と百済・倭が戦い敗北。西日本に山城・防人を配置。都は大和から近江へ)。668年、高句麗も滅亡。朝鮮半島では新羅だけが残る。…670〜676年、唐・新羅間で戦争−新羅が統一。】
*671年11月、唐からの使節(郭務悰(かくむそう))の来朝。白村江の戦いの捕虜2000人と交換する形で、軍事物資(甲冑・弓矢・布・綿)を供与(5月30日に帰国)。新羅攻撃用の兵は提供せず。


3.「壬申の乱」−672年(*右の「壬申の乱」全体図を参照)
◆(1)大海人皇子の吉野を脱出し、東国へ
≪吉野から伊賀を経て、鈴鹿の山を越え、桑名に至る。≫
・671年12月3日、近江大津宮で天智(てんじ)天皇死去(46歳)。.大友皇子が後を継ぐ(26歳)。
・672年6月22日、大海人皇子、美濃へ使者−村国男依 (むらくにのおより)ら美濃国に地盤をもつ3人を派遣。兵を徴発、近江から東国へと通じる不破道を塞がせる。(「不破道」を確保することは、この戦乱の重要ポイント)←大海人皇子、先手を打つ。
6月24日、吉野脱出。〈吉野から伊勢へ〉…大海人皇子は、わずか従者三十余人を引き率れ東国へ。→菟田(うた)郡家→隠駅家(なばりのうまや)→伊賀駅家→伊賀中山〈「郡家」は郡役所、「駅家」は古代駅制の役所〉
6月25日、近江を脱出した高市皇子(たけちのみこ)と積殖(つむえ)の山口で合流。→莿萩野(たらの)→積殖山口→鈴鹿郡→川曲坂下〈「川曲(かはわ)の坂本に到りて、日暮れぬ。皇后の疲れたまふを以って、暫く輿(みこし)を留めて息(やす)む。〉…吉野を出て、休息は菟田の吾城と伊賀の莿萩野において2回とっただけ。
6月26日、朝、大海人皇子、伊勢の神の加護−「迹太川(とほかわ)の辺(へ)にして天照大神を望拝みたまふ」。大津皇子と合流。
・美濃の野上(現関ケ原)に行宮(かりのみや)を設営ー不破宮(野上行宮)。以後、乱の終結まで、大海人皇子は不破の地を動くことはなかった。高市皇子へ全権を委任。


◆(2)大和方面の戦い(*右の資料を参照)
《大伴吹負を中心にして語られる》
6月29日「飛鳥京を制圧」、大伴吹負(ふけい)は飛鳥京の豪族を味方にし、〈高市皇子が多くの軍勢を率いてやってきた〉と叫びながら攻めて制圧。(奇策)。→大伴吹負を将軍に任じた。
・〔近江朝廷軍の反撃〕…奪われた飛鳥京を奪い返すため河内方面と奈良方面から飛鳥に向け大軍を送り込む。
・7月4日「乃楽山の戦い」、奈良県北部の乃楽山(ならやま)で、大伴吹負軍は朝廷軍と戦い、吹負軍敗北。
7月7日〜8日、飛鳥に向かった大海人軍が大伴吹負軍と合流。箸墓で朝廷軍と激突。大海人軍が勝利し、大和を制圧。

*「大伴吹負戦記」…大和における大伴吹負の動きがかなり詳しく収録されている。勝ったリ、負けたりしている。【(注)壬申紀は従軍舎人の手記や大伴氏の家記(かき)を原史料にしたといわれている。】


◆(3)近江方面の戦い(*右は『日本書紀』巻二十八(壬申紀))
・7月2日、村国男依らに数万の兵、不破から出陣。大海人軍は赤色の旗(赤い軍隊)で、朝廷軍と区別。高市皇子が指揮。
・7月5日「倉歴(くらふ)(滋賀県甲賀郡)の戦い」。…大海人軍は敗走。
・.7月7日「息長横河(おきながかわ)(米原市)の戦い」、7月13日「安河(やすのかわ)(滋賀県の野洲川)の戦い」…村国男依らの軍が朝廷軍を破る。
7月22日「瀬田橋の戦い」…最大の決戦地となった瀬田橋。大友皇子みずから朝廷軍を率いて参戦。瀬田橋を挟んで歴史に残る激戦が展開。朝廷軍敗北。大海人軍は.瀬田橋を渡り大津京に向かう。
7月23日、大友皇子は敗れ、山前(やまさき)で自害(25歳)。
(注)山前は、三井寺前の長等山と考えられる。大友皇子の陵がここにある。
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戦後処理
・7月26日、不破宮(野上行宮)にて、大友皇子の首実験。
・逃亡していた近江の重臣は、次々と捕らえられ、8月25日処罰発表。右大臣・中臣金(なかとみのかね)ら8人は極刑(死罪)、左大臣・蘇我赤兄(あかえ)らは流罪。

○「壬申の乱」に勝利した大海人皇子は、9月12日飛鳥京に入り、15日に岡本宮に移る。673年2月、飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位。『日本書紀』は673年を天武2年とする。