河内と近江−二つの小野妹子塚

(%緑点%)後期講座(歴史コース)の第5回講義の報告です。
・日時:10月13日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:河内と近江ー二つの小野妹子塚
・講師:上野 勝己先生(元太子町立竹内街道歴史資料館館長)
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小野妹子の略歴
小野妹子(おののいもこ)は飛鳥朝廷が中国に派遣した遣隋大使で、『日本書紀』には次のように記されている。
◆推古天皇十五年(607年)秋七月、小野妹子を隋に遣わされた。
◆推古天皇十六年(608年)夏四月、小野妹子は隋から答礼使・裴世清をともなって帰国した。…同年9月、帰国する裴世清らに同行して、再び隋に行く。
◆推古天皇十七年(609年)秋9月、小野妹子らが隋から帰国した。
このように小野妹子は、遣隋使として二度にわたって派遣されて活躍しているが、その生没年や墓所等について、はっきりしたことはわかっていない。


河内の小野妹子塚
(1)河内妹子塚の所在地(大阪府南河内郡太子町山田)
科長(しなが)神社の南約100mの小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる小さな塚がある。塚の大きさは、高さ3m、長径15m、短径10.5mの楕円状の墳丘で、墳丘内に石室や石棺用材等の石材は全く露出していない。
(2)河内妹子塚の初見史料
「河内名所図会」〈江戸時代・享和元年(1801年)刊〉が初見史料で、「妹子大臣塚 科長の神社の南一町斗にあり」は現在の妹子塚と合致する。→初見史料が妹子の時代から約1200年も後のこと。
(3)河内妹子塚伝承の形成
小野妹子と関係の深い祖父敏達天皇、娘の日益姫(西方院の三尼)、推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の墓と近接していることから、妹子の父・娘・祖父など血縁者を中心に、政治的関係のあった人々の遺跡などによって、形成されたものと考えられる。
(4)河内妹子塚と華道池坊
①大正10年(1921)妹子塚大修築…碑文によると「華道池坊は、小野妹子を祖先で華道の道祖と考えて、妹子塚を修築した」
②池坊と小野妹子の接点…聖徳太子は京都・六角堂頂法寺を創立し大臣妹子を初代住職とされた。小野妹子は太子沐浴の池の側に居を構えたので、以後代々住職は池坊を称し、その名に妹子が号した”専務”の”専”を継承するようになったとしている。…池坊華道の始祖専慶は、応仁の乱前後に活躍した六角堂の僧侶であったところから、以後代々の家元は六角堂住職を兼務し今日に至っている。
③小野妹子の墓前祭…池坊では小野妹子没時を669年6月30日とし、毎年妹子塚へ家元や支部代表や関係者数百人が妹子塚に参拝、墓前祭が行われている。
・池坊の修築によって妹子塚は一層の広まりをみせ、やがて桜の名所としても人々に知られるようになった。
(注)しかし、江戸時代の妹子塚伝承形成に池坊が関与したことをしめす資料はなく、それは考えられない。


近江の小野妹子塚
河内の小野妹子塚にたいして、近江(滋賀県大津市小野)にも小野妹子塚と伝えられる唐臼山古墳(からうすやまこふん)がある。
(1)近江妹子塚伝承形成の原点
・『新撰姓氏録』(815年)…小野妹子が滋賀郡小野村(現志賀町)に住んだと記されている。当時小野氏がここを拠点としていたとおもわれるが、妹子の墓所については全く記されていない。また、江戸時代中期の『近江国輿志略』巻32「小野村」には、地元には小野妹子の墓、関係する旧跡伝承等は全くない、と記している。
(2)山尾幸久氏(立命館大学名誉教授)の主張「小野氏と小野妹子」(平成6年)
◆志賀町小野には唐臼山古墳がある。小野妹子の墓と伝えられている。残された文献によるかぎり、この伝承は江戸時代には確認できない。
◆『新撰姓氏録』は妹子が志賀町小野に居住したので小野氏の名がはじまったとするが、事実は京都の上高野あたりを小野の本拠とする小野氏が居住したので、志賀町に小野の地名ができたのであろう。
◆志賀町小野には、古代に小野朝臣が住んでいた痕跡が文献上まったくみあたらない。(略)小野家本宗がもともと志賀町に発祥し志賀町で繁栄していたのならば、毛人の墓はかならずや志賀町小野になければならない。
(注)小野毛人墓誌…小野妹子の子・毛人(えみし)の墓は、愛宕郡小野町(京都市左京区)に造られ、志賀町の唐臼山古墳とは比叡山を隔てた南西10余kmに位置している。

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**まとめ**
●河内の小野妹子塚と近江の小野妹子塚、二つとも小野妹子の墓である可能性はほとんどない。
・本居宣長は、吉野花見及び大和の陵墓古跡探求の旅日記『菅笠日記』〔江戸時代・明和9年(1772)〕で、名所旧跡について「所の名に因りて、作りしこととぞ聞ゆる」。と疑問を呈している。…18世紀後半期の名所旧跡を生み出す背景の中でその所在地の地名と関係して創出された。
(注)河内妹子塚は、血縁関係の遺跡などに因って形成されたと考えられる。
●小野妹子の墓である可能性は少ないといってもその価値を否定するものではない。その伝承を作り上げた時代の地域史を解明するする上で、貴重な歴史的文化遺産となるし、視点を変えて信仰的にみれば、200年以上にわたって、一貫して妹子塚を多くの人々、特に、大正10年の修築を契機に以後毎年墓前祭(6月30日)を行い礼拝してきたのもまぎれもない事実です。(上野先生)