(%紫点%)後期講座(文学・文芸コース)(9月〜1月:全13回)の第6回講義の報告です。
・日時:10月22日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:奥吉野のロマン
・講師:浅田 隆先生(奈良大学名誉教授)
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◆奥吉野
・自然風土から見た奈良県は、山岳地帯(吉野郡:県域の60%を占める)、高原地帯(大和高原:20%)、都市部・平野地帯(20%)である。東には三重県、南と西は和歌山県に接する。
・奥吉野は、山々が連なる山岳地帯で、大峰の山々は熊野まで連なる。吉野川は紀ノ川となって紀伊水道へと流れ下り、十津川と北山川は熊野川となって熊野灘に注いでいる。
◆奥吉野が秘めた後南朝の歴史
後醍醐天皇の建武の中興(1334年)後、南北朝の合一(1392年)によって統一されたのちも、1457年までの約60年間、後南朝が奥吉野で続いたという哀史が伝えられる。
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○南北朝時代 (関連年表)
・1333年(元弘3):鎌倉幕府滅亡。(足利尊氏は六波羅探題を攻め落とし、新田義貞は鎌倉に突入し北条氏を滅ぼした)。
・1334年(建武1):後醍醐天皇、建武の新政(中興)。たった2年で終わる。
・1336年(建武3):足利尊氏、光明天皇を擁立(北朝)して、室町幕府を創立。一方、後醍醐天皇は、吉野に移り、南朝を起こした。南北朝時代へ。1339年−後醍醐天皇没。
・1392年(明徳3):足利義満、南北朝合一。《後亀山(南朝)は三種の神器を後小松(北朝)に譲って退位。後亀山の皇子を皇太子。…こうして50余年続いた南北朝動乱は終る≫
○後南朝の歴史
・1410年(応永17):元南朝の後亀山上皇は、幕府の応対に不満を持ち、京都を出奔して再び南朝を再興しようとした。
《次第に北朝軍の手の届かない奥吉野の山間僻地へのがれ、容易に敵の窺い知リ得ない峡谷の間に60有余年も神璽を擁していたという》。
・1457年(長禄1):長禄の変。赤松氏の残党ら自天王を殺害。(ついに大覚寺統が絶える)
◆谷崎潤一郎『吉野葛』より
『昔からあの地方(奥吉野)、十津川、北山、川上の荘あたりでは、今でも土民によって「南朝様」或は「自天王様」と呼ばれている、南朝に後裔に関する伝説がある。…南朝びいきの伝統を受け継いで来た吉野の住民が、南朝といえばこの自天王までを数え、「五十有余年ではありません。百年以上も続いたのです」と、今でも固く主張する。』
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■長禄元年(1457)に北朝方の赤松家残党によって、南朝の流れを受け継ぐ自天王は若くして悲しい最後を遂げる。その惨事を伝え聞いた川上郷士たちは、赤松家残党から自天王の御首を取り返し、金剛寺に手厚く葬ったと伝えられる。自天王の首を奪い返した川上郷士たちは代々語り継がれ、毎年2月5日に遺品の兜(重要文化財)などを拝する朝拝式が行われる。(今年で558回目)。
・(右上の写真)現に、川上村では毎年2月5日に「南朝様」をお祭り申し、神の谷の金剛寺に厳かな朝拝の式を挙げる。その当日には数十軒の「筋目の者」(南朝方にお仕えした郷士の血統)たちは十六の菊の御紋章についた裃を着ることが許され、知事代理や郡長の上席につくのである。
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**あとがき**
○谷崎潤一郎『吉野葛』作品の梗概
・『吉野葛』(よしのくず)は、「自天王」「妹背山」「初音の鼓」「狐噲」「国栖」「入の波」の6章からなる。第1章から4章までは、吉野地方にゆかりの歴史や古典作品(浄瑠璃『妹背山婦女庭訓』、『義経千本桜』など)がからめられ、第5章、6章で明かされる。
・小説の材料となるはずの「後南朝」の「自天王」の事跡から始められながら、旅行中に主人公・津村青年が語った彼の生い立ちとその母を恋う気持ちの吐露によってほとんど占められる。(津村の母は、もと新町の花柳界に身を沈め、他家の養子として嫁いだ女性でその母の実家が吉野の国栖(くず)にあった)。主人公・津村青年の母恋い=妻問い物語に奥行きを与える構成になっている。
・谷崎が『吉野葛』を完成するために、数回、吉野を訪れて、吉野山の旅館「桜花壇」に逗留して書いている。
・小説『吉野葛』に出てくる地名…吉野町(吉野川、吉野山)、奥吉野、国栖(くず)(菜摘)、、宮滝(妹山)、川上村(柏木〔伯母ヶ谷、伯母峰、入の波(しおのは)〕)、大台ケ原、西吉野村(賀名生(あのう)-南朝皇居跡の伝承地)、上北山村、下北山村(前鬼)など。
**(注)ネットで[川上村 朝拝式]で検索してください。朝拝式の様子がよくわかります。