芭蕉『奥の細道』の旅空間(七)

(%紫点%)後期講座(文学・文芸コース)の第8回講義の報告です。
・日時;11月19日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:芭蕉『奥の細道』の旅空間(七)〜末の松山・塩竈の浦・塩竈明神・松島〜
・講師:根来 尚子先生(柿衞文庫学芸員)
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*前回までの復習*(第一回〜第六回)
芭蕉が門人の曽良を伴って、みちのくの旅に出たのは、元禄二年(1689)。そのとき、芭蕉46歳、曽良41歳。江戸・深川を出発し、下野・陸奥・出羽・越後・越中・加賀・越前の各地を歴遊し、8月に美濃の大垣に到着。その間150日、全行程約600里(2400km)。
◆第一回:旅立ち(3月27日〈陽暦5月16日〉)、江戸・深川から千住、草加。
◆第二回:室の八島、日光
◆第三回:那須野、黒羽、雲岩寺
◆第四回:殺生岩・遊行柳、白河の関
◆第五回:須賀川、安積山、信夫の里、飯塚の里
◆第六回:笠島、武隈の松、宮城野、壺の碑
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(%エンピツ%)講義の内容
◇第七回:壺の碑から「末の松山」、「塩竈の浦」、「塩竈明神」、「松島」
(一)末の松山・塩竈の浦.(多賀城市)
(概説)「末の松山では墓群を見つめながら、《羽を交わし枝を連ねるといった固い愛情の約束》も、終わりには、みなこのように墓石と化してしまう。人生の無常を痛感する。やがて、塩竈の浦に着いたが、夕暮れを告げる寺の鐘の音にも、人生の無常を感じた。夜は、琵琶法師の語る奥浄瑠璃を耳にして、みちのくに伝わる芸能に感興を覚えた。」
・歌枕「末の松山」
「君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 波も越えなむ」(『古今集』大歌所御歌・陸奥歌)
(意訳)(あなたをさしおいて、わたくしが浮気心を持ったなら、この末の松山を波が越えないように、わたくしは浮気はしません。)

(二)塩竈明神(多賀城市八幡)
(概説)「翌日の早朝、塩竈(しおがま)明神に参拝した。芭蕉が深く感銘した、文治三年(1187)に和泉三郎が寄進した宝燈がある。灯籠寄進の2年後、兄泰衡(やすひら)の襲撃を受け、義経とともに戦死した。和泉三郎は.勇気があり、節義を重んじ、しかも忠義孝行の武士である。《人たる者はよく道にかなった行いをし、節義を守るべきである。名声もそれに従って生じるものである》と古人も言っている。」
(注)和泉三郎(いづみのさぶろう)…藤原秀衡の男、忠衡(ただひら)のこと。義経をかくまっていた父秀衡の死後も、その遺命に従って義経を護り、兄泰衡が頼朝に迫られて義経を攻めたとき、義経に味方して戦い、ついに自刃した。23歳。

(三)松島(*右の資料を参照)
芭蕉にとって伝統的な歌枕である「松島」を訪れることは、旅たちの際に「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。…松嶋の月先づ心にかかりて、…」と記したようにみちのくの旅の大きな目的でした。
(現代語訳)(松島は日本第一の優れた風景である。…(中略)…松島の景色は、見る人をうっとりさせるような美しさである。このうような造物主のすばらしい仕業を、だれが絵筆を振るって十分に描き写したり、だれが美辞麗句を連ねて詩文に表現し尽くすことができようか。…以下略)。
■芭蕉は、あこがれの地、松島を描くにあたり、漢文体の筆致を用いている。(芭蕉は感動の高まった場面では、漢文調の強い文体を用いる。)

・「松嶋や 鶴に身をかれ ほととぎす」(曽良)季語:ほととぎす(夏)
(意訳)(曽良の句。絶景の松島には鶴が似合いなので、姿だけは鶴の衣をかりてはどうか、と時鳥に呼びかけた句)
■芭蕉は、松島の景勝に圧倒されて、ついに句作するところがなかったことを告白している。…「白河の関」の章段でも、その感慨を詠んだ句を挙げていない。あまりの絶景に接すると、心が奪われて、納得する句が詠めなかった。