「銅鐸の大量埋納は淡路島で始まったのか」

(%緑点%)公開講座(11月27日)の報告です。
・日時:11月27日(金)午後1時半〜4時10分
・会場:大阪府立狭山池博物館 2階ホール
・演題:「銅鐸の大量埋納は淡路島で始まったのか」−弥生社会のマツリと銅鐸群の謎を解くー
・講師:森岡 秀人先生(橿原考古学研究所共同研究員)
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○「新聞発表」(2015年5月20日) (*右は神戸新聞に掲載)
今年、淡路島の松帆で銅鐸7個とそれを鳴らす振り子(舌)が発見され、5月20日に考古学史上でも極めて珍しいこととして各紙で報道されました。
・4月に石材セメント製造会社の砂置き場で発見された(沿岸部に埋まっていたものが砂ごと採取されたらしい)。
・7個は青銅製で、高さ22〜32センチ、重さ約2kg。銅鐸は、最古段階の「菱環紐式」1個と古段階の「外縁付紐式」6個で占められ、扁平紐式(中段階)を一切含まない。大小の銅鐸が「入れ子」状態。
・舌(長さ8〜13センチ)も3個確認。舌が入った状態で銅鐸が確認されたのは全国で初めて。
・ひもの一部を初確認。銅鐸のひも(銅鐸を木の枝などにつりさげたり、音を鳴らすための青銅製の舌(振り子)を銅鐸内部につるしたものとみられる。銅鐸のひもがみつかるのは初めて。ひもは数種類あり、「よりひも」「組みひも」。(銅鐸は直接手に持って揺り鳴らしたという説もあったが、何かにつりさげて鳴らしていた。)
・銅鐸の埋納方法は、鰭(ひれ)を水平にして埋めていた。(銅鐸を寝かせて、左右の鰭を垂直に立てた例がほとんど。)

銅鐸について
1.銅鐸は、日本独特の青銅器
・日本独自の青銅器である銅鐸は、「朝鮮式小銅鐸」とよばれる鈴を期限に、祭祀用の道具(祭器)として発達したとされる。初めは高さ20cm程度だったが1mを超すものも登場するなど独自の発展をした。(原料は輸入していた可能性が強い。)
・弥生時代のシンボル的な存在だった銅鐸は、古墳時代を前にこつぜんと姿を消す。
2.銅鐸の型式分類
吊り手である「紐」(ちゅう)の形から、「菱環紐式」、「外縁付紐式」、「扁平紐式」、「突線紐式」に4分類される。紐の断面は次第に薄くなり、つるす機能が失われていった一方、銅鐸は巨大化し、「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」へと変化していった。
3.何に使われたのか
稲作にかかわる豊作の祭りや集落の安全を祈る祭祀に使われたとみられる。
4.埋納場所
・山頂の少し下や、山の斜面、谷の奥など、集落の周縁部に多く埋納している。
・銅鐸がすっぽり入るほどの穴を掘り、両側面の鰭(ひれ)を立てて横たえて埋めることが一般的。
5.埋納理由
「銅鐸は大型集落に一つ存在した程度。集落が分解したり統合したりしていた。村の構造変化により、“銅鐸の埋める契機”をつくっていた。集落の再編を意味する。」、「地中に保管し、祭りのたびに掘り出していたが、祭りが途絶えた」、「境界の守りとして埋めた」、「自然災害や他の勢力に攻め込まれるなど集落に大きな危機が迫ったとき、最も大事なものを奉納し、神を味方につけようとしたのではないか」、「埋納そのものを儀礼としてみるマツリ説。銅鐸自身の死と引き替えに豊穣の生命を取り返そうとした」…など。
・大量埋納の理由…集落が統合された際に、それまで使っていた銅鐸を埋めたという説や、古墳時代の新しい祭祀を受け入れて銅鐸を一斉に埋めたとする説など。

淡路島の大量埋納は淡路島で始まったのか
(1)銅鐸が多数出土した場所
・島根県雲南市の加茂岩倉遺跡で出土した39個。
・滋賀県野洲市の大岩山で24個。
・神戸市灘区の桜ケ丘遺跡で銅鐸14個。
・今回の「松帆銅鐸」は7個。(過去4番目の出土数)
(注)淡路島での出土総数、21個(伝承を含む)。兵庫県は全国最多で68個。-全国で出土した数、532個。

(2)今回の松帆銅鐸の調査について(森岡先生説)
・銅鐸は、菱環紐式(最古段階)と外縁式紐式(古段階)で、銅戈や銅剣など他の青銅器を伴出しないことも、この銅鐸群が古い一群であることを傍証する。今回の発見で大量埋納の始まりが1世紀以上遡り、一定期間をおいて繰り返されたとの説も出ている。
・7個という過去4番目の出土数に加え、音を鳴らすための振り子「舌(ぜつ)」3本がセットで発見されたのは異例(これまで大量に出土した銅鐸には、舌が付いていなかった。埋納にあたり祭器としての機能を奪い去ったということで舌を外したと考えられていた。)
・同じ松帆地区の古津路(こつろ)から古いタイプの銅剣14本が出土していることから、この地域は青銅器埋納地として重要であった。
・7個の銅鐸は、複数の集落から集められたことになる。だが、淡路島では、大集落跡は見つかっていない。島内だけでなく海を渡って遠隔地からもたらされた可能性もありそうだ。
・「松帆銅鐸の埋納で、鰭を水平にして埋めていた」。→鰭を立てて埋めるという「不文律」が決まる前の初期の埋納だった可能性がある。(最も古い仕来りというものは、不安定要素があり、多くの不文律が貫徹されていない特徴が備わる。)
・古い型式の銅鐸が畿内中心部ではほぼ出土しないことから、淡路島内で生産された可能性も指摘。
・今回の松帆銅鐸は、弥生時代中期中ごろ(紀元前2世紀初頭)から後半に埋めたとみられ、日本列島で最古の銅鐸多数埋納となりそうである。(大量銅鐸多段階埋納の第一段階と推定する。)

(3)今後の課題
瀬戸内航路の要である淡路島が最も早い時期から重視され、銅鐸集中埋納の対象地として選択された背景に何があるのか。