(%緑点%)後期講座(歴史コース)の第10回講義の報告です。
・日時:12月1日(火)am10時〜12時15分
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:アンコール遺跡の考古学
・講師:中尾 芳治先生(元帝塚山学院大学教授)
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(%エンピツ%)講義の内容
1.カンボジアの歩み
*右の写真は、アンコールワット。《2016年カレンダー「世界遺産・アンコール遺跡」(上智大学アンコール遺跡調査団・監修 石澤良昭団長)より》。
[前アンコール時代](紀元前〜802年)
・2世紀ころ…最古のクメール系の王国プナムがカンボジア南部のメコンデルタ地帯に建国。→6世紀中頃クメール人の王国チェンラ独立。→7世紀チェンラがプナムを併合。
[アンコール期](802年〜1431年)…アンコール朝は、クメール人(カンボジア人)が建てた王朝。9世紀から約600年余りにわたって続き、最盛期はインドシナ半島の中央部をほとんど領土としていた。また、何度も内部分裂と歴史の切断(4回の新都城の造営と新寺院の建設)があった。
〈9〜11世紀〉アンコール王朝興隆期
・ヤショヴァルマン1世(889〜910年)…第1次アンコール都城。(群雄割拠状態の国内を統一)。
〈12〜13世紀)アンコール王朝最盛期
・スーリヤヴァルマン2世(1113〜1150年)…アンコール・ワットの造営(アンコール・ワットとは「寺院のある町」の意味。当時クメール人によって造営された世界最大級の国家鎮護の寺院である。アンコール・ワットの中央本殿には高さ65mの大尖塔五基が構築。)
・シャヤヴァルマン7世(1181〜1218年)…アンコール・トムの建設(一辺約3kmの城壁で囲まれた都が作られた。その王都はアンコール・トム(大きな町)と呼ばれ、その中心に位置するのがバイヨン寺院である。)
〈1296年〉周達観、中国・元朝の使節に随行してアンコールを訪れ、その見聞録『真臘風土記』を著わし、当時の貴重な史料となっている。
[1431年]シャム(現在のタイ)アユタヤ王朝との戦闘によりアンコール都城陥落し、南へ遷都。
[後アンコール時代](1431〜1863年)
[フランス植民地時代](1863〜1953年)
[現代カンボジア時代](1953〜現代)
・1953年…カンボジア王国独立。シアヌーク国王。
・1975年…ポル・ポト共産政権。
・1993年…新生「カンボジア王国」誕生。
2.アンコール遺跡群保存の歴史
*右の写真は、バイヨン寺院。アンコール・トムの真ん中に立っている。仏陀の慈悲が四面に行きわたるように観世音菩薩の四面仏尊顔が彫られている。(2016年カレンダーより)
・1860年:フランス人博物学者アンリ・ムオーがカンボジアを踏査し、アンコール遺跡の素晴らしさ記述した(『世界一周』誌に紹介)。西欧では世紀の大発見として騒がれた。(アンリ・ムオーが発見するまで、密林の奥深く眠り続けていた。)
・1901年:「フランス極東学院(EFF0)、ハノイに設立。(20世紀初頭から、フランスによるアンコール遺跡保存・修復事業)
・1980年:「上智大学アンコール遺跡国際調査団」調査開始。
・1993年:「アンコール遺跡救済国際会議」(「東京宣言」採択)…日・仏共同議長。
・1994年:外務省「日本国アンコール遺跡救済チーム(JSA)」発足し、調査開始。
・1996年:上智大学アンコール研修所(アジア人材養成研究センター)開設。
・10年ごとに国際会議。−2003年パリで第2回「アンコール遺跡救済国際会議」開催。
3.バンテアイ・クデイ寺院の発掘調査(上智大学アンコール遺跡国際調査団)
1989年以来、アンコール・トム都城の東側にある中規模遺跡バンテアイ・クデイ寺院跡を中心に、考古・建築など調査・研究。
・遺跡を守る協力は、ただ、ショベルカーで掘って、クレーンで石材を積み直せばよいというものではない。まず、何よりも遺跡の綿密な基礎調査や研究、そして石積みなどの経験が必要。
・文化遺産の国際保存協力には、発掘手法に熟練した考古学者、修復経験を積んだ建築家、石を動かせる有能な石工など、まず何よりも「人」の養成から始めなければならない。
・アンコール遺跡は、世界文化遺産であると同時に、カンボジアの人々が誇りとする国の象徴であり、民族のアイデンティティ−の原点ともなっている。「上智大学アンコール遺跡国際調査団」は、アンコール遺跡に対するカンボジアの文化的主権を尊重し、「カンボジア人によるカンボジアのためのカンボジアの遺跡保存修復」をミッションとし、人材育成を中心に支援協力していくことを基本方針としている。
*右上は、現地(アンコール遺跡)で中尾先生が拓本の作業をされている写真です。
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**あとがき**
◆かつてアンコールは、東京23区の範囲に約60の遺跡群があるアンコール遺跡群を中心に1000〜1500平方kmの広さがあり、およそ75〜100万人の人々が暮らしていたとみられ、産業革命以前において最も巨大な都市が存在していた。
◆バンテアイ・クデイ寺院の発掘調査で、仏像埋納遺構があり、仏像が破壊(274片)されていた。王位継承の内戦で、前政権を否定するための仏像破壊行為。大乗仏教の観世音菩薩信仰から、新しい王のもとでヒンズー教の神々を信仰するようになったのであろう、廃仏毀釈が行われていた。
◆肥州の森本右近太夫一房、アンコール・ワットを訪ねたのは1632年(寛永9年)。四体の仏像を奉納した旨の墨書が残っている。…17世紀の朱印船貿易隆盛の頃、多数の日本人がここを祇園精舎と考えて訪れ、十字型回廊の壁や柱などには、日本参詣者の墨書跡が14ヶ所残っている。
◇中尾芳治先生は、1991年より「上智大学アンコール遺跡国際調査団」考古班を指導。特にプノンペンの王立芸術大学の考古学部の学生をアンコール遺跡において15年にわたり現場研修。