「日本の陵墓と風水思想」

(%緑点%)後期講座(歴史コース)の第11回講義の報告です。
・月日:12月8日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:日本の陵墓と風水思想
・講師:来村多加史先生(阪南大学教授)
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○前回(11月10日)の講義「中国の皇帝陵の風水思想」の復習
中国の南朝陵墓は風水思想の原型(*右の資料を参照)
南朝の陵墓は、山にもたれ、一筋の谷を墓域として、墳墓は非常に長い谷の最奥部に築かれている。
・大半の陵墓が一筋の谷を兆域(ちょういき、陵墓の区域)としている。
・中国では、古くから土地の吉凶を観る習慣があり、堪輿術(かんよじゅつ、風水術)は、後漢時代から魏晋南北朝時代にかけて形成された。
・明太祖「朱元璋」孝陵…朱元璋(在位1368−1398年)。歴代陵墓の中でもっとも理想的な「風水の宝地」に築かれ、明清皇帝陵の模範となる。

日本に風水術が伝播(*右上の資料を参照)
百済を通じて、五世紀初頭に入ってきたと思われる。
・風水の影響を受けた「一筋の長い谷の奥に築かれた古墳」があった。…日本の古墳にも南朝陵墓と同様の地形に築かれているものがある。

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■日本の陵墓と風水思想
磯長谷陵墓区
磯長谷には、敏達・用明・推古・孝徳の四代の大王墓と聖徳太子墓を含む、7世紀前半を中心とする王陵が営まれている。王陵の谷といわれる。

*「聖徳太子墓」(しょうとくたいしぼ)は、小高い丘の五字ヶ峰にもたれ、左右の尾根に包まれ、小川の流れる谷筋に向かい、前方の視界を丘によってさえぎられる、閉ざされた空間の中にある。「用明天皇陵」は、聖徳太子墓の前方を東西に横切る谷の奥部中央に位置する。谷をY字形に分岐させる尾根の上に築かれている。谷の開口部は用明陵から800mの位置にあり、その付近での谷幅は70mである(これは南朝陵墓の兆域にとりこまれた平均的な谷の規模である)。用明陵の谷中に聖徳太子墓も存在するが、聖徳太子は用明天皇の長子であるため、一谷を兆域とする聚族而葬(しゅうぞくじそう、一族を集めて葬る習慣)の墓制に反するものではない。
*「推古天皇陵」…用明天皇の南にある推古天皇陵も同様に、谷をY字形に分岐させる尾根に乗っている。二つの天皇陵は地形の使い方において、偶然とは思えない共通性をもっている。
・(注)用明天皇陵、推古天皇陵とも磯長谷に改葬。
・(注)敏達と孝徳陵について、現在の立地は堪輿術の匂いがしない。

飛鳥陵墓区
七世紀の飛鳥時代には、中国の南朝陵墓に類似する選地が見られ、奈良時代以降にも火葬墓や天皇陵の一部に堪輿術を感じさせるものがある。

*「岩屋山古墳」…古墳が西の丘から線路に向かってのびる尾根の背梁にきずかれている、E字型丘陵を利用した古墳。真ん中の尾根は左右の尾根より短いので、その尾根に墓を築くと、尾根に抱かれるような景観となる。岩屋山の東方には真弓丘と檜隈を仕切る高取川が流れ、小丘は川を隔てた真正面の位置に鎮座(案山)。
*「牽牛子塚古墳」(けんごしづか)(右の資料の下部に描かれた風水図を参照)…墳丘が八角形ではないかと推測され、斉明天皇の陵ではないかとする説がある。選地のすばらしさ。この古墳は一筋の長い谷を使っている。
*「真弓鑵子塚古墳」(まゆみかんすづか)…越智谷の最奥部から突出した小さな尾根の先端にあり、東西3kmばかりある谷の景観を独占している。谷の入り口には南から北へ曽我川が流れて「水法」の役目を果たし、その西のホホマの丘は「案山」、さらにその遠方にそびえる葛城山は「朝山」。真弓鑵子塚古墳は、風水師が示す地形の要素をすべて兼ね備えた土地に築かれている。

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**あとがき**
・日本の古墳にも南朝陵墓と同様の地形に築かれたものに気づいた。特に明日香村には風水の影響を色濃く受けた古墳が多くみられた。一筋の長い谷に築かれた古墳がそこかしこにあった。(来村先生)
・参考文献:『「風水と天皇陵』(来村多加史著)(講談社現代新書 2004年)