「蕪村」−句と画と人と−

(%紫点%)後期講座(文学・文芸コース)の第9回講義の報告です。
・日時:12月10日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:蕪村−句と画と人と−
・講師:根来尚子先生(柿衞文庫学芸員)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**蕪村「略年譜」**
享保元年(1716)−天明三年(1783)。江戸時代中期の俳人、画家。今年(2015年)は蕪村[生誕300年]。
・1716年(享保元年):摂津国東成郡毛馬(けま)村(大阪市都島区)に生まれた。
・若いころ(20歳)、江戸で過ごし、夜半亭巴人(はじん)先生の弟子となって俳句を学ぶ。
・1742年(寛保二年):師巴人が没すると、以後10年間、江戸を離れ、関東・東北を巡り、土地の俳人と交流、絵の勉強もする。
・1751年(宝暦元年):36歳、京都へ行く。1755年、丹後地方に赴き、宮津や与謝で画作に励む。1758年、京都に帰り、まもなく結婚する。
・1770年(明和七年):55歳、巴人の夜半亭を継承して俳諧宗匠。
・1777年(安永五年):62歳、ひとり娘を嫁に出す。翌年から数々の大胆な取り組み。『夜半亭』の「春風馬堤曲」など刊行。
・1783年(天明三年):68歳没。金福寺芭蕉庵のそばに葬られる。
(注):蕪村は、みずからの出自について何も語っていない(父・母がどんな素性の人なのか、また、妻の姓(うじ)も謎に包まれている。)
(注):蕪村は、若くして大坂近郊の故郷を出てから、二度と足を向けることはなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(%エンピツ%)講義の内容
1.「句」(俳詩)
①「北寿老仙をいたむ」(蕪村)〈かな書の詩人(仮名で漢詩を書いた人)〉
下総国結城でお世話になった晋我(しんが)(俳諧師)が75歳で没した。その晋我を追悼して、名作長編詩「北寿老仙をいたむ」を作った。
—–
君あしたに去りぬ
ゆふべのこころ千々(ちぢ)に何ぞはるかなる
君を思うて岡の辺(べ)に行きつ遊ぶ
岡のべ何ぞかくかなしき
—–
・・・といういう句で始まる十数行の長詩を作っている。
萩原朔太郎が絶賛し、「この詩の作者の名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作と言っても、人は決して怪しまないだろう」(.『郷愁の詩人』与謝蕪村・昭和11年)
・(意訳)悲報に接した傷心の夕べ、友の面影をを求めて、岡の辺(べ)をさまよう中で、雉子の声に無常の風にさらされた人間の無力感。何事も弥陀のはからいに任せきった。
・この詩の作年次は、延享二年(1745年)蕪村30歳の時とされてきたが、完成度の高さから、晋我33回忌にあたる安永六年(1777)の作とも考えられる。

②「春風馬堤曲」(*右上の資料を参照)
1777年(安永六)の新春、刊行した『夜半楽』に収めた蕪村の代表作(俳詩)。俳句・短詩・漢詩など十八首。
・「春風馬堤曲」(しゅんぷうばていのきょく)は。藪入りで帰省する女性の仮託して蕪村の郷愁を述べた俳詩として名高い。
・第一首「やぶ入や 浪花を出て 長柄川」、第二首の「春風や 堤長うして 家遠し」のいわば序曲としての二句から始まり、浪花に奉公してすっかり垢抜けした青春まっただの中の娘が老母と弟の待つ生家に藪入りで帰っていく途中、芹を摘んだり、茶店の老婆に美しい着物をほめられたりして、わが家に着くまでを描く。末尾は、太祇(たいぎ)の句「藪入りの 寝るやひとりの 親の側」の句である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2.「画」
蕪村は、中国の南宋文人画を範としながらもこれにとらわれず、狩野派などの技法を自在に取り入れることにより、日本南画を大成。俳画はその南画と俳諧を合体したものである。
・蕪村の実生活は、楽ではなく、生活の糧はもっぱら画業に頼っていた。
・蕪村は絵師としてかなり知られていた。(円山応挙、池大雅らと交流)

蕪村筆「紫陽花にほととぎす」自画賛
空間をたっぷりと取った画面右、上方に右から左へ向かって啼きながらとぶホトトギス。左下方に紫陽花の花を描き、ホトトギスの下方に小さく三行に
「岩くらの 狂女恋せよ ほととぎす」(蕪村)
蕪村筆「太祇馬堤灯図」自画賛
句会からの帰路、激しい風雨に傘はおちょこになった太祇(上)と提灯の火が消えてしまった蕪村(下)を描く。両手で傘の柄を握る男を見ると、一筆で見事に形を表している。
蕪村筆「角力図」自画賛
2人の力士が組み合って動かない。それを左から行司が「はっけよい」と声をかけ、勝負を見守る。少ない筆致で簡単に描かれているが、後ろを向く力士の力が入って盛り上がった筋肉が表現されている。
「負(まく)まじき 角力を寝もの がたりかな」(蕪村)
蕪村筆「夜色楼台図」(部分)(国宝・個人蔵)
横長の画面で冬の夜の山々と家並みを描き、雪の降り続く情景を見事に表現している。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3.「人」−書簡集
書簡は、交友、家庭、娯楽など多岐にわたる人生模様が繰り広げられる。蕪村は書簡に達者で、460通とたくさん残っている。。
蕪村筆「柳女・賀瑞宛」(安永六年2月23日)(1777年)
伏見の門人、柳女(りゅうじょ)・賀瑞(がすい)母子に宛てた書簡で、「春風馬堤曲」に触れて、「馬堤ハ毛馬也。すなわち、余が故園也」とみえることから、大阪の淀川河口に近い毛馬村(摂津国東成郡)の出身と知られる。…幼少のころ、遊んださまを語る手紙である。
蕪村筆「霞夫・乙総宛」(安永四年閏12月11日)(1775年)
但馬出石の俳人、霞夫(かふ)・乙総(おとふさ)兄弟に宛てた書簡で、几董(きとう)は蕪村の後継者になった高弟。
また、同じ書簡で、一人娘が成長し、琴の上達を喜んでいる。(親バカぶり)
蕪村筆「延年宛」(安永五年12月24日) (1776年)
延年(船町の年寄役を勤める豪商の一族)宛の書簡で、娘を願ってもない「良縁」と確信して嫁がせた。一人娘を嫁がせた安堵感がにじみ出たている。(ところが半年もしないうちに離縁になってしまう。)
蕪村筆「おとも」宛」(天明三年) (1783年)
妻「とも」宛の手紙が一通残っている。蕪村は行きつけの料亭「杉月」に昨日からいる。「是非とも今晩は帰申候」と言っているが、それでも、妻にあれやこれや持ってくるように命じている。(亭主関白ぶり)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
**あとがき**
・江戸時代において影が薄かった蕪村が、近代において再評価したのは明治期の正岡子規。その後、俳人だけでなく荻原朔太郎らの詩人も蕪村を称揚する。
・蕪村俳句の抒情性、多様性、多彩性
菜の花や月は東に日は西に(春)
春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(春)
春風や堤長うして家遠し(春)
牡丹散て打ちかさなりぬ二三片(夏)
さみだれや大河を前に家二軒(夏)
月天心貧しき町を通りけり(秋)
老いが恋わすれんとすればしぐれかな(冬)
いざや寝ん元日はまた翌(あす)の事(冬) 他
・蕪村は、近代詩の先駆者。
・蕪村は、老いて、感情が解放され、感覚がみずみずしくなって、62歳で「春風馬堤曲」を書き、画業も62歳以降。
・参考資料
『郷愁の詩人 与謝蕪村』(萩原朔太郎・岩波文庫 1988年)
『蕪村書簡集』(岩波文庫 1999年)
『与謝蕪村 画俳ふたつの道の達人』(別冊太陽 2012年)
************************************************
(%エンピツ%)2015年もあと数日となりました。
来る年の皆様のご多幸とご健康をお祈り申し上げます。