(%緑点%)後期講座(歴史コース)の第12回講義の報告です。
・日時:12月15日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:一休宗純
・講師:加藤善朗先生(京都西山短期大学教授)
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1.一休宗純年譜
*右は、弟子の墨斎が描いた一休宗純の肖像画。八の字の眉に不精ひげ、一休は身なりにかまわない僧であった。(東京国立博物館蔵 重文)(一休宗純Wikipediaより)
◆一休宗純は、室町時代の臨済宗大徳派の禅僧。応永元年(1394)〜文明十三年(1481)。「一休とんち話」でおなじみの一休宗純は、一休さんと親しみをこめて呼ばれているが、江戸時代につくられた「一休咄(ばなし)」.をはじめ、ほとんどが後世の創作。…真の姿は、「風狂」の僧。放浪・漂白の生活を好み、数々の奇行で名を馳せ、同時に漢詩にも優れ、数々の作品を残している。
・応永元年(1394):京都に生まれる。幼名は千菊丸。父は後小松天皇と伝えられる。
・1399年:6歳。安国寺の小僧となり修行。周建(しゅうけん)とよばれた。−1406年(13歳)、漢詩を学ぶ(その詩才を高く評価される)。
・1410年:17歳。西金寺(さいこんじ)の謙翁(けんおう)和尚に仏典などを学ぶ。「宗純」の名をもらう。−1414年(21歳)、謙翁が亡くなり、悲しみのあまり琵琶湖に身投げ(自殺したが助けられる)。
・1415年:22歳。華叟(かそう)和尚に師事。−1418年、華叟より『一休』の道号を与えられる。…兄弟子、養叟との確執が始まる。
(1422年28歳頃から、寺には住まず、旅をしながら小庵や民家を仮の住まいとする。)
・1442年:49歳。譲羽山(じょううさん・高槻市)に尸陀寺(しだじ)をつくる。
・1456年:63歳。妙勝寺(京都府薪村)を修復し、酬恩庵(一休寺)と名づける。
・応仁元年(1467):74歳。応仁の乱をのがれ、酬恩庵にうつる。
・文明6年(1474):80歳、勅命により大徳寺48世の住持となる。
・1481年:88歳。酬恩庵で没す。
◇著書
『自戒集』(1455年)(兄弟子・養叟を徹底的に批判)
『狂言集』(1480年)(漢詩文集。参禅工夫を詠んだ詩もあれば、女性との関係を赤裸々に詠んだ詩も掲載するなど、風狂の一休を映し出す書である。)
2.一休宗純の逸話など(抜粋)
(1)一休の名
・禅において、「洞山三頓の棒」という公案に対し、
「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから大徳寺の高僧、華叟より一休という道号を授かる。
(意訳)(有漏路(うろじ)とは、迷い(煩悩)の世界。無漏路(むろじ)は、悟りの世界。自分はいま、迷いの世界から悟りの世界へ至る途上の一休み。雨が降ろうと、風が吹こうと、どうぞご勝手に。)
(2)カラスの鳴き声を聞いて大悟
・応永27年(1420)、26歳。一休は、真夜中、琵琶湖岸の船上で座禅しているとき、カラスの鳴き声を聞いて、「カラスは見えなくてもそこにいる。仏もまた見えなくても心の中にある」と悟りに至ったという。…華叟は、一休を後継者と認め、印可状(いんか、悟りの証明書)を与えようとするが、一休は辞退する。(一休はその印可状を火中に投じたといわれる。)
(3)新年頭の髑髏(されこうべ)
正月早々、杖の頭に髑髏を突き刺し、汚い法衣で、「ご用心、ご用心」と言いながら、歩き回った。
「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」
(意訳)(元旦が来るたびに、あの世が近づいている。めでたいような、そうでもないような・・・。)
3.一休が遺したことば(抜粋)
・「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」
(浄土真宗の蓮如上人とは、年の差(一休は19歳年下)、宗派の違いを超えて深く親交を結んでいた。一休は蓮如のことを詠んだ。〈真理の山に向かう道は違うけれど、同じ月を我らは見ている〉)
・「釈迦という いたずらものが世にいでて多くのひとをまよわするかな」
(お釈迦さんといういたずら者が世に出たために、今までどれほど多くの人が、彼によって迷わされたことでしょう。逆説的に釈迦への感謝の表明で、かなりの努力をしないと当たり前の事実に気づくことはできない。一休も多くの無駄骨折りがあってこそと、釈迦を讃えている)
・「花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの」
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**あとがき**
・一休さんといえば、アニメを思い浮かべるが、実際は、臨済宗大徳派の禅僧。そして、真の姿は、風狂の僧−法衣をまといながら、公然と、肉を食べ、酒を飲み、性の自由を享受する、掟破りの数々。しかし、それは一休が辿りついた悟りの境地の体現であった。
・一休についての童話・伝説は、死後200年あまりたってから、『一休咄(ばなし)』、『一休諸国物語図絵』、『一休関東咄』、『一休頓知咄』が著れされて、頓知のある坊さんとして、民衆にしたしまれるようになった。内容は、日本各地に伝わる”和尚と小僧”の民話からとったものが多く、「とんち話」は、ほとんどが後世の後付けないし創作。
・一休は、なぜ民衆に広く慕われるのか。…一休宗純の時代背景は、絶え間のない戦争と天変地異等の災害で、苦難に満ちた社会であった。一休は奇言奇行も多いが、名利を放棄した潔い品格によるものであろう。人間味あふれる詩人として、自由奔放に生きた。
・一休の臨終の言葉は、「死にとうない」といわれている。酬恩庵(京都府京田辺市薪)に墓所があるが、「後小松天皇皇子宗純墓」と記されており、宮内庁が管理している。
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◇迎春「シニア文化塾は設立して7年目になります。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。」