「桓武天皇の陰謀」

(%緑点%)後期講座(歴史コース)の第13回講義の報告です。
・日時:H28年1月5日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:桓武天皇の陰謀
・講師:若井敏明先生(関西大学非常勤講師)
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(%エンピツ%)講義の内容
称徳天皇崩御と光仁天皇の即位
「称徳天皇の崩御」(宝亀元年(770))一種の宮廷クーデター
・由義宮(ゆげのみや)に行幸(2月27日)…称徳天皇は、道鏡の出身地である若江郡弓削郷(大阪府八尾市)に離宮を造営し行幸した。そこで身体が不調になり、4月6日に平城宮に還った。この時より百日余り、自ら政務を執ることはなかった。(『続日本紀』)
・「皇帝遂に八月四日に崩ず。天皇、いまだ皇太子を立てず。」…称徳天皇崩御(53歳)。即座に、次期皇位継承者についての協議が禁中で行われた。左大臣( 藤原永手)・右大臣(吉備真備)・藤原百川・参議らが出席し策定したと『続日本紀』は伝えている。
「白壁王立太子、道鏡下野国に左遷」
・「百川伝」をもとにした『日本紀略』の記述によると、吉備真備は、天武系の文室浄三(ふみやのきよみ)(智努王)・その弟大市を冊立しようとした。それに対して、藤原永手・良継・百川は、偽りの宣命をつくり白壁王を冊して皇太子となす。
・8月21日、白壁王(皇太子)の令旨…道鏡を造下野(しもつけ)国薬師寺別当に左遷。(道鏡が密かに皇位を狙い続けてきた陰謀が発覚したが、称徳天皇の厚い恩を考慮して、法による刑罰ではなく、下野国に追放する。)
白壁王の即位(光仁天皇)
宝亀元年(770)十一月一日、光仁天皇が誕生(62歳)。井上(いがみ)内親王は皇后に、他戸(おさべ)親王は皇太子と定まった。
・藤原永手らが白壁王を擁立した理由は、その妻が聖武天皇の皇女・井上内親王であり、二人の間に他戸という子がいたことであったと思われる(この段階に至っても、まだ聖武の血統を重視したと思われ、この考えでいけば、白壁の即位の目的は、将来、他戸親王を即位させることであった。)
・(注)山部王(後の桓武天皇)は、光仁天皇の長子であったが、母が高野新笠(渡来系氏族)で血筋が低い。

井上内親王事件と他戸廃太子(なぜ、皇后と皇太子は廃位されたか)
『水鏡』光仁天皇段
・光仁と井上皇后と博奕(ギャンブル・双六)をして遊んでいたとき、光仁が戯れに、「もし自分が負けたなら、美男を皇后に奉ろう。もし皇后が負けたら美女を私にくださいといった。皇后が勝って山部親王を天皇に要求し、天皇と親王を苦悶におとしいれたが、藤原百川(ももかわ)の強いてのすすめで山部が皇后宮に参じた。(この時、井上皇后は56歳だったというから、当時としては相当の老女であり、真偽のほどは定かではない。)
・井上皇后と他戸太子は、「一刻も早く皇位を」という願いを込めて呪詛。→宝亀三年(772)、井上内親王は謀反の嫌疑によって、皇后の地位を追われ、翌年、他戸皇太子も廃太子となった。…皇后と皇太子は、大和国宇智郡に幽閉され、宝亀六年(775)4月に一緒に亡くなったという。

山部の立太子(『水鏡』)
廃后、廃太子の結果、代わりの皇太子を選定することが緊要事になった。本来、山部に皇位継承の資格はなかった(生母の血筋から.皇位につなげて考えられることはなかった)。百川らの強力な推薦が功を奏し、宝亀四年(773)正月に太子に選ばれた。
・他戸の廃太子されたとき、聖武系で皇太子にふさわしい者はおらず、次善の策として光仁天皇の皇子から候補が選ばれ、37歳の山部親王が立太子。
・ここに至って、天武系から天智系に移ることがほぼ定まった。(天智−志貴皇子−光仁天皇−桓武天皇の皇統は天智系)
・藤原百川は権謀術数をめぐらせて山部の立太子に尽力(百川のおかげ)。

山部の即位(桓武天皇)
天応元年(781)、病を患っていた光仁天皇は山部皇太子に譲位し、桓武天皇が即位した。時に新帝は45歳。皇太子は光仁の遺志に添って弟早良(さわら)親王と定まった。
(これによって、ほぼ百年にわたった天武系の皇統は絶え、天智系の皇統へ)
・王朝の交代…中国では、辛酉(しんゆう)の年に革命が、甲子(かっし)の年に、大きな変革があるとされる(讖緯説(しんいせつ)。桓武天皇は、自らの即位を新王朝の樹立と考え、辛酉の年に即位、長岡京遷都の年は甲子年で、平安京遷都の詔は辛酉の日。

桓武天皇と怨霊

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**あとがき**
■孝謙・称徳天皇(718〜780年)(在位749〜758年、764〜770年)
女性天皇。聖武天皇と光明子の間に生まれた。739年立太子、749年即位。母・光明皇后の後見のもと藤原仲麻呂と深く結ぶ。孝謙天皇は、淳仁天皇に譲位→孝謙上皇は道鏡を寵愛するに及んで淳仁と不和になり、764年淳仁を廃し重祚(称徳天皇)。女帝は次の天皇を明確に指名せず亡くなる。
■道鏡(700?〜772年)…河内国若江郡(大阪府八尾市)に生まれる。弓削連(ゆげむらじ)であるところから弓削道鏡とも呼ばれる。孝謙天皇に寵愛されたことで、天皇と姦通していた説などが、「日本霊異記」など説話集に材料とされることも多い。道鏡が皇位を狙っていたという具体的な証拠は乏しい。
■光仁天皇…平城宮では称徳天皇後の皇位継承をめぐる事件が発生していた。白壁王は、これに巻き込まれないように、わざと酒に酔いしれて無関心ぶりを通し、保身につとめていたという。
■桓武天皇の陰謀とは…天武・聖武の血を受けず、渡来系氏族を母に持つという血統、高貴な井上内親王を排斥して得られた皇太子の地位、これらのマイナスを克服するため、桓武天皇が主体的に選び取り、創り出したと思われる。
◇史料
・『続日本紀』:桓武天皇の時に作られた。文武から桓武までを収める編年体の正史。「日本書紀」に続く六国史の第二番目の国史。40巻。
・『水鏡』:歴史物語。鎌倉時代初めの書。作者は未詳。かな文で書いてある。大鏡・増鏡と併せて三鏡と称せられる。「扶桑略記」をもとに神武から仁明までの時代を描いた書。正史にない.裏話を主に記している(意外に真実を記したと思われる史料もあり、不思議な書)。