(%紫点%)後期講座(文学・文芸コース)の第11回講義の報告です。
・日時:H28年1月7日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:平家物語を読む〜木曽義仲登場〜
・講師:四重田 陽美先生(大阪大谷大学教授)
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**『平家物語』の概要**
・成立と作者…成立は未詳。平家滅亡から40〜50年後(1230年頃)。作者は未詳。
・構成…平家の栄華と没落を描いた戦記物語。
・冒頭の名文…「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる者久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。猛き人もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。」
・四重田先生の『平家物語を読む』は、2011年1月に始まって、今回で11回目の講義となります。
**木曽義仲・略年表**
・1154年(久寿一):義仲は、清和源氏の嫡流源為義の次子義賢(よしたか)の次男として東国に生まれる。父の死後、信濃国(長野県)の木曽の土豪、中原兼遠に養われ、木曽の山中で成人する。
・1180年(治承四):(5月)以仁王の乱、(8月)源頼朝、伊豆に挙兵、(9月)木曽義仲(27歳)、信濃国に挙兵。
・1182年:平家側の越後の城(じょう)一族の大軍を信濃の横田河原で壊滅し、義仲は越後を勢力圏に入れる。
・1183年(寿永二):(3月)頼朝、義仲と不和になる。(4月)木曽義仲追討のため平家十万余騎出陣。(5月)越中境の倶利伽羅合戦。義仲大勝。(7月)平氏都落ち。
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(%エンピツ%)講義の内容
○『平家物語を読む』巻第六−「横田河原合戦」
■ 「横田河原合戦」 (よこたかわらがっせん)
「1182年9月2日、城長茂(ながもち)は、木曽義仲追討のため四万余騎で信濃国(長野県)へ向け出発する。9月9日には信濃の横田河原に陣を取った。信濃源氏の井上光盛の計略(三千余騎のを七手に分け、平家の赤旗をもって接近し、突撃直前に源氏の白旗に切り替える陽動作戦)により、多くの武将が討たれ、長茂自身も負傷して、かろうじて生き延びて、越後国に撤退した。…同月16日、都で平家は、この横田河原の敗戦などどこ吹く風と、平宗盛(清盛の次男)が内大臣になり昇進した。…東国北国の源氏たちが、今にも都に攻め上ろうとしているのに、どこ吹く風でそ知らぬ様子で、華やかな行事などに日々を送っているのは、かえってはかなく思われた。」
○『平家物語を読む』巻第七−「清水冠者」・「北国下向」・「火打合戦」・「倶利伽羅落」
◆「清水冠者」(しみずのかじゃ)…寿永二年(1183)3月上旬に頼朝と木曽冠者義仲が不和になるということが起きる。義仲は、11歳になる自分の嫡男を人質として、頼朝に差し出す。
・冠者…元服をすませた大人でありながら、官位も官職もない若者をいう。
◆「北国下向」(ほっこくげこう)
木曽義仲が五万余の兵で、いまでも都に攻め上ってくるという噂が流れた。平家は前年から戦いの準備を通達していた。まず、義仲を討ち、それから鎌倉の頼朝を討とうと、平維盛(これもり)を筆頭に十万余騎の兵で4月17日都を出発し、北国(北陸)に向かった。
■ 「火打合戦」 (ひうちがっせん)
「義仲は、自身は信濃(長野県)に留まっていたが、越前国(福井県)に火打ちが城を.構えて陣を張った。この城は本来、非常な堅固な城郭で、平家の大軍は、攻めあぐねたが、城郭の内にいた斉明の裏切りよって、落城した。1183年5月8日、勢いにのった平家軍は加賀国篠原に勢揃いした。総勢十万余騎の兵を、大手(おほて・正面)と搦手(からめて・横手)の二手に分けた。義仲は越後国(新潟県)にいたが、この平家の進軍を聞いて五万余騎で加賀国に向かう。自軍の戦いの吉例であるからといって全軍を七手に分ける。…源平両軍は砺浪山(となみやま)(富山県)周辺で対峙することになる。」
■「倶利伽羅落」(くりからおとし)
「源平の陣は、わずか三町(約330m)ほどへだてて対峙した。義仲は矢合せを繰り返して時間を稼ぎ、日の暮れを待ち、平家の大軍を倶利伽羅谷に追い落そうと計画していたのを、平家は少しも気づかず、源氏に合わせて相手になって、一日を暮らすのは後の悲劇を思えばあわれなことである。暗くなって。平家の背後にまわった搦手(からめて)の軍勢一万余騎がどっと鬨(とき)の声をあげた。前後から源氏は攻めてくる。平家は倶利伽羅が谷に馬を走らせ我先にと下った。先に行った者の様子が見えないので、この谷の底に道があるのだろうと思って、みんな谷底に転落して、深い谷全部を平家の軍勢七万余騎で埋めてしまった。したがって、その谷のあたりは、矢の穴や刀痕がいまでもあるという。平家の大将維盛(これもり)・通盛(みちもり)は命拾いをして加賀へ退却。逃げ延びたのは七万騎のうち、わずか二千騎だけであった。」
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**あとがき**
・無位無官の義仲は、木曾谷で兵をあげ、小武士団からなる北陸を勢力圏としていたにもかかわらず、全盛を誇っていた平氏政権をわずか3年足らずで打倒した。このことは義仲が第一流の武将であったことを示す。
・次回(7月)の『平家物語を読む』は、「都を去る平家一門」をテーマ。