「僧・行基の事績」

(%緑点%)後期講座(歴史コース)の第14回講義の報告です。
・日時:H28年1月12日(火)am10時〜12時10分
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:行基の人と事跡を巡る
・講師:佐藤 興治先生(奈良文化財研究所名誉研究員)
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○「行基の人」
*右は、東大寺・行基堂の「行基菩薩坐像」。【行基は、東大寺の四聖(ししょう)の一人。大仏の創建に功績のあった良弁(東大寺の初代別当・聖武天皇・行基・菩提僊那(ぼだいせんな・インドの渡来僧・大仏開眼会の導師)を四聖という。】
1.行基の生まれ〔資料(1)を参照〕
行基は、天智七(668)年、河内国大鳥郡蜂田里(現在の大阪府堺市)にあった母の家で生まれた。父は高志才智(こしのさいち)、母は蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)という。父の高志は、西文(かわちのふみ)氏の分派であり、母方の蜂田氏とともに百済系渡来氏族の出身である。
2.行基の出家・修行・布教
行基は、天武十一(682)年、15歳で出家。24歳で大和の高宮寺(御所市)の徳光禅師のもとで受戒した。法興寺や薬師寺に住し、法相宗を学び、さらに山林修行を積んだ。その後、里に下り民衆布教を開始し、平城京など畿内で.活動した。


3.行基への弾圧 〔資料(4)を参照〕
◆『続日本紀』養老1(717)年4月条
「行基は、小僧行基とさげすまれ、僧尼は寺家に寂居すること、乞食(こつじき・托鉢)行為を制限し、余物を乞うことを禁ずる。」
・行基を名指しする内容である。行基の活動が、民衆と接触していたことへの危惧を表しており、集団行動の規制(弾圧)があったとみられる。

4.弾圧から公認へ〔資料(6)を参照〕
◆『続日本紀』天平3(731)年8月条
「行基の弟子に対し、法の如く修行と、年令制限という二つの条件を付して、入道(出家)を許可している。」
・小僧行基という呼び方から行基法師になり明らかな変化がみられる。
・出家・得度は、僧尼令の規定とおり国家の許可が必要である。
*《.天平15(743)年:大仏を造りたいと願った聖武天皇から.勧進に起用される。》
*《天平17(745)年:行基は、日本最初の大増正の位を贈られる。》


○行基の社会事業
行基が活動した範囲は、ほぼ畿内で、はじめて仏教を民衆に伝道し、社会事業施設造りを並行・展開した。
(1)活動の範囲…畿内(河内・和泉・摂津・山城・大和)
(2)49院を建立…河内7、和泉12、摂津13、山城10、大和12
(3)農業関係…溜め池15、用水路6、水門3
(4)布施屋9…調・庸を都に運搬し、都での労役に従う人民は、道中で餓死するものがい多かった。交通の要衝に、宿泊させ食料を与える施設が布施屋。僧侶の慈善事業として営まれた。


>○大野寺 土塔
行基が建立した49院の一つである大野寺の土塔(どとう)(大阪府堺市土塔町)は、土を盛って構成され、1辺が約55m、13段の階層があり、高さは約9m。官寺の仏塔は三重ないし五重の木造楼閣であった例が多いのに比べると、土塔の塔は、農民生活に密着した土で構成され、庶民とともに生きた行基仏教の面目をしのばせる。
・大野寺の土塔が、神亀四(727)年に起工された(出土した軒丸瓦銘文より明らかになった)。
・瓦の表面に大野寺造営に協力した農民の氏名や名前が箆(ヘラ)書きで刻まれている(出土した300点以上の人名瓦から、多くの在家信者.の寄進によって塔が作られたことが知られる)。
*《土塔のような階段状の低層仏塔は、奈良市高畑町の頭塔(ずとう)と岡山県熊山町の熊山遺跡に例がある。》
(注)こうした四角錐状の低層塔婆は、インド系説、中国系説、東南アジア系説があり、今後の研究課題となっている。

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**あとがき**
・家原寺(えばらじ)…行基が37歳の時、母の実家があった生誕地に、49院の第一号として建てたのが家原寺。”知恵の文殊さん”として親しまれ、入学試験シーズンには、合格を願う多くの参拝客で賑やか。合格祈願はハンカチを購入して、そこに希望学校名などを書いている。
・行基は、天正二十一(749)年2月2日に、平城右京の菅原寺で逝去(82歳)。生前に菩薩といわれたのは行基ただ一人。大仏開眼を見ることなく、行基は亡くなったのである。行基墓は、竹林寺(奈良県生駒市有里町)にある。