「高杉晋作と奇兵隊」−松陰を継ぐもの


(%緑点%)後期講座(歴史コース)の第15回講義の報告です。
・日時:H28年1月26日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・演題:高杉晋作と奇兵隊−松陰を継ぐもの
・講師:笹部昌利先生(京都産業大学助教)
・天候:(%雪だるま%)寒波の襲来で、朝方、雪が積もり、交通機関の乱れにより、出席者は45名(欠席20名)。笹部先生は京都から来られ、雪の影響なく定刻に講義は開始。
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1.高杉晋作とは
・天保十年(1839)〜慶応三年(1867)
・1839年、萩城下の菊屋横丁に生まれる。そのころの高杉家は、大組(おおぐみ)という中級武士の家柄、二百石の知行取り。
・明倫館を経て、19歳のころ、吉田松陰の松下村塾に学ぶ。20歳で江戸に出て、昌平黌に入る。
・1862年(22歳)、幕府調査団に随行して上海へ渡航。同年12月、イギリス公使館焼討事件(晋作らが品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼打)
・1863年、晋作、下関の白石正一郎邸で奇兵隊を結成。
・1864年〜65年、下関で挙兵(藩の方針を反幕府に転換させる)。
・1866年、第二次長州征伐で海軍を指揮(15万の幕府軍が3500の長州藩に敗北)。
・1867年、肺結核で死亡。享年29歳。

2.上海への渡航と「攘夷」
幕府の外国貿易調査団(通商条約締結後の情報収集)の一員として、文久二年(1862)に上海渡航。
「遊清五録」 ( ゆうしんごろく)(高杉が上海に関して、書き残したもの)
(意訳)「…支那人は尽(ことごと)く外国人の便役となり、イギリスやフランス人が道を歩くと、みな路傍に避けて道を譲る有様だった。実に上海の地は支那に属すといえども、英仏の属地なり…」→「我日本にも速やかに攘夷の策を為さずんば、遂に支那の二の舞になってしまうであろう。」
・アヘン戦争後の列強(イギリス・アメリカ・フランスなど)による清国の植民地化の実情を体験したことは、高杉にとって、のちの行動に大きな影響を与えることになる。

高杉の「攘夷」実行−≪品川御殿山イギリス領事官焼き討ち≫
文久二年(1862)12月、竣工まじかの広壮な二階建ての英国公使館を焼き討ち。…上海帰国後の一見無謀とも思える攘夷行動の背後には、上海の実情を体験してきた高杉が、安易に開国すればこと足りるとする開国論への身を挺しての抵抗行動だった。「狂」(ひとつの信念に向かってわき目もふらずに突進)の真意もそこにあった

3.長州藩の攘夷と奇兵隊
◆攘夷戦を通じて、長州は欧米諸国の武力を見せつけられた。文久三年(1863)6月1日、アメリカ軍艦による下関攻撃。この危機に対応するために、萩に閉居していた高杉は、急遽山口に呼び出され、藩主から抜擢人事(馬関総奉行手元役)。6月7日、「有志之者」による「奇兵隊」結成。
「…奇兵隊は、有志の者の集まりで、藩士・陪臣・軽卒を撰ばず、力量を重んじて堅固な隊にしたい。…(省略)」→奇兵隊は、「有志の者」による「力量」中心の隊であるという綱領は、家格・身分を基準にした幕藩体制下の軍事編成の原理とは全く異なった発想に立っていることがわかる。
◆元治元年(1864)四国(英仏蘭米)連合艦隊の下関来襲。高杉が再び起用されて、その講和条約の正使となった。(長州藩の攘夷派は、列国の実力と攘夷の不可能なことを身をもって知らされた)。300万ドルという莫大な賠償金は、徳川家と明治政府が分割で支払うことになった。
◆慶応元年(1865)、長州征討(第2次)。しかし薩摩藩は翌年、薩長同盟を結んで幕府の出兵命令に応じなかった。また、長州藩は、農民・町民をも加えた奇兵隊などの諸隊を動員して、各地で幕府軍を打ち破った。高杉は、小倉口を攻めて連戦連勝したが、8月肺結核にかかり、翌年4月下関に死んだ。…幕府は、将軍家茂の病死をきっかけに戦闘を中止した。

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**あとがき**
・高杉晋作は、松蔭に学ぶ。松蔭も高杉の議論のうまさを賞賛。松下村塾の四天王は、高杉・久坂玄瑞・吉田稔麿・入江九一。
・「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」(高杉のきわだつ行動力)
・1862年、焼き討ちの直後、周布正之助に諫められて感ずるところがあり、政治活動の表面から退きたいと申し出て、「10年間の暇(いとま)」を許された。また、剃髪し、西行法師をもじって「東行」(とうぎょう)と号する。
・奇兵隊は、一面では藩主公認であったが、その軍事力としての編成は、総奉行の指揮する家臣団の「正兵」に対する、まさに「奇兵」であった。…奇兵隊は、近代軍隊と言われているが、正規ではない。軽装歩兵で、最前線に配備され、使い捨ての近代歩兵。奇兵は藩の施設は使えない等の差異。また、高杉の活動場所としての下関は、萩・山口ではない。白石正一郎の援助。
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(%緑点%)平成27年度「後期講座」(歴史コース)(9月〜1月:全15回)は、1月26日で終了しました。講師の先生方並びに受講生・聴講生の皆様に厚くお礼申し上げます。