五世紀の雄族(Ⅲ)・葛城氏の滅亡

日時:H28年3月1日(火)am10時〜12時
会場:すばるホール(富田林市)
講師:平林章仁先生(龍谷大学教授)
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【復習(Ⅰ・Ⅱ)】
**「五世紀の雄族(Ⅰ)・葛城氏の誕生」**
・奈良盆地の南西部に古くから住んでいた葛城氏は、五世紀にヤマト王権の内政・外交を主導し、繁栄を極めた土着豪族でした。その祖とされる葛城襲津彦は、『日本書紀』神功皇后から仁徳朝に至るまで活躍し、新羅や加羅を討った伝承や弓月君の率いた人夫を加羅から連れ帰った伝承が記載。
・神功皇后六十二年条に引く『百済記』に「沙至比股(さちひこ)」とみえ、襲津彦は実在の人物であった可能性が大きい。
・ヤマト王権の構造(階層)
[倭国王(天皇)・天皇一族]−〔(中央氏族)葛城氏など〕−〔各地の氏族〕

**「五世紀の雄族(Ⅱ)・葛城氏の女たち」**
・葛城氏は、一族の女たちを次々に入内させ、天皇家の外戚となる。
・仁徳天皇は、葛城襲津彦の娘・磐之媛(いわのひめ)を皇后とし、のちの履中・反正・允恭天皇をもうけたと伝える。

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「五世紀の雄族(Ⅲ)・葛城氏の滅亡」
五世紀に権勢を誇った葛城氏が五世紀末ごろには滅亡し、『古事記』・『日本書紀』には直接的な所伝が採録されていない。…この謎について解明する。
A.葛城氏と尾張氏
◆『日本書紀』允恭天皇五年七月条《葛城氏.の衰退の第一歩》
「葛城襲津彦の孫の玉田宿禰(たまだのすくね)が、亡くなった反正天皇の殯(もがり・喪儀)の任務を怠慢し、葛城に帰って酒宴にふけっていたことが、視察に来た尾張連吾襲(おわりのむらじあそ)に知られ、吾襲を殺害。ついに、允恭天皇は玉田宿禰を召し出し、この時、玉田宿禰が衣の下に鎧(よろい)を着けていることが露見し、天皇は反意を悟り、殺害した。」
・允恭天皇は、葛城氏から妃をとらなかった。
・ヤマト王権の中で、五世紀の中頃、尾張系と葛城系が対立。尾張連吾襲が葛城を探りに行ったのではないか。
-飛鳥・小墾田(小治田)…尾張氏は小墾田(おわりだ)と関係がある。
-葛城の元の地名は、高尾張邑(たかおわりのむら)であった。

B.葛城氏と吉備氏
◆『日本書紀』雄略天皇七年八月条《吉備氏との連携を断たれる》
「吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみ さきつや)は吉備下道の首長。雄略天皇にみたてた小女と小雄鶏と、自分になぞらえた大女と大雄鶏を闘わせて、小さい方が勝つと殺していたことを聞いた雄略天皇は、下道臣前津屋と一族を殺害した。」
・ヤマト王権の中で、葛城と吉備は手を結んでいた。しかし、吉備氏とヤマト王権の関係がよくない(吉備氏は皇位をうかがっていた)。

C.葛城氏の滅亡
◆『日本書紀』安康天皇元年二月〜雄略天皇即位前紀《葛城円大臣と眉輪王の焼殺》
「安康天皇が、弟である大泊瀬皇子(雄略天皇)の妻に草香幡日梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)(若日下王)を迎えるに際して、皇女の兄・大草香皇子(父は仁徳、母は日向諸県君氏。『古事記』は大日下王)を殺害して妻の中蒂姫(なかしひめ)皇女を奪い取った。ところが、真相を漏れ聞いた大草香皇子の遺子・眉輪王(まよわのみこ)(目弱王)は、安康天皇を殺した。…それを知った大泊瀬皇子(雄略天皇)は、眉輪王と兄の坂合黒彦皇子と、彼らが頼った葛城円(つぶら)大臣を燔殺(はんさつ)した」という。
・この事件の真相は、日向(宮崎県)南部を本拠とする諸県君氏出身の女性を母とし、河内日下(大阪府東大阪市)を拠地とした王族「日下宮王家」最後の王である眉輪王が、後背勢力と頼んだ葛城氏とともに滅ぼされたことにある。
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**あとがき**
○葛城氏は天皇家の外戚となって繁栄。また、広範な地域の有力豪族(尾張氏・吉備氏・紀氏・日向の諸県君氏ら)と連携して権力を構築。→しかし、葛城氏は雄略天皇の時代(5世紀後半)に没落。
○四世紀以降の葛城氏は、前方後円墳の築造からみて、ヤマト王権の構成員であり、「葛城王朝」なる独自政権として存在していたわけではない。
○前方後円墳は、ヤマト王権のメンバーのしるしである。
・「宮山古墳」〈室大墓、280m、葛城襲津彦の墓)…御所市室(むろ)に所在。
・「造山古墳(350m)、作山古墳(286m)」…吉備地方の岡山平野。
・「男狭穂塚古墳(219m)、女狭穂塚古墳(174m)」…西都原古墳群(宮崎市西都市)など

【参考文献】
『謎の古代豪族 葛城氏』平林章仁著(祥伝社、2013年)