織田信長と京都

・日時:3月8日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:山田邦和先生(同志社女子大学教授)
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信長の本拠地(城)
・天文3年(1534)織田信長、尾張勝幡城で生まれる。父は同城主・信秀。
「信長の家は、織田氏の支流の一族で、信秀の代から台頭して、尾張随一の武将にのし上がる。信秀は勝幡(しょばた)城から那古野城に本拠地を移した。」
・天文20年(1551)、信長18歳の時、父信秀が死んで、家督を継ぐ。
・永禄3年(1560)、「桶狭間の戦い」(今川義元を奇襲)…尾張一国を平定。1562年、三河の徳川家康と同盟して、東方の後顧の憂いを除く。1563年、小牧山城を築き、北の美濃への進出。
・永禄10年(1567)、斎藤龍興の美濃稲葉城を奪い、岐阜城と改名し、ここに移る。…美濃・尾張を平定(岐阜城を本拠地)。この後、「天下布武」の朱印を使用。
・天正元年(1573)、朝倉義景・浅井長政を、1575年、家康を援けて武田勝頼を破り、天正4年(1576)、信長(43歳)、近江安土に壮麗な安土城を築いて、ここを本拠地とした。…安土の地は、第一に京都に近い(安土からならば、その日のうちに着ける。岐阜からだとどうしても途中で一泊せざるを得ない)。第二に琵琶湖に面して、水運を利用して、近江のどこへでも抜ける。第三に東国・北陸への交通が便利。

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信長時代の京都
(1)戦国時代の京都
「上京と下京は別個の町。上京は〈政治〉の町、下京は〈商人〉の町。」
(2)信長の上洛と宿所
本拠地(岐阜城・安土城)と京都を、頻繁に往来し、お寺(下京の妙覚寺・本能寺)を宿所としている。
・永禄2年(1559)2月、信長(25歳)は、上京の室町頭裏辻に宿所。将軍足利義輝に謁見。
・信長は、上京に、将軍義昭のために二条御所(旧二条城)を造営(かなり、しっかりした城)。…しかし、信長自身の居城は、京都に築いていない。

*(注)戦国時代の人口
-京都の人口は、約10万人〜10数万人
-日本全体で、総人口1,000万人前後。
-堺は数万人。各地の町は、多くても1万人以下。

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本能寺の変[天正10年(1582)]
1573年、越前の朝倉、近江の浅井を滅ぼし、対立する足利義昭を京都から追放(室町幕府滅亡)。1580年、本願寺顕如と和睦し、10年続いた石山戦争に終止符をうち、ついで、1582年、3月武田勝頼自刃、武田家滅亡、北国攻め(対上杉氏)、中国攻め(対毛利氏)が進行、四国攻め(対長曽我部氏)にも着手。−信長は、天下統一に王手をかけている。
■1582年5月29日、信長(49歳)、本能寺に入る。6月2日、家臣の明智光秀による本能寺の変、信長自刃。
・信長の嫡男・信忠も同時に死ぬ。…信忠は、妙覚寺に宿泊、本能寺とは1km足らずしか離れていない。隣の二条御所にこもって防戦のすえ自殺した。→信忠が、思い切って妙覚寺から逃亡していたら、日本の歴史は大きく変わっていたかも知れない。
(注)「金ヶ崎の退き口」(かねがさきの のきくち)−戦国史上有名な織田信長の撤退戦。−浅井長政の裏切りの情報を受けて、信長は少数の馬廻りと小姓だけを率いて南に馬を走らせ、命からがら逃げる。

*光秀謀反の原因には、怨恨説・政権奪取説・黒幕説(いろいろな説)などが主張されている。
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**あとがき**
○”本能寺の変”の責任は、信長自らである。(山田先生)
信長のまわりは真空状態だった。このとき、すべての武将は各地に出陣しており、京都は丸裸。家康は、わずかな人数をつれて堺に遊びに来ていた。明智軍は1万五千人の軍勢。…光秀が恨んでいたとしても、その機会を作り出したのは、一瞬のチャンス。
○戦国大名は、皆、天下を目指したか?
「戦国大名は、先ずは、自分の領地の保全。そして、できるだけ領土を増やして、その地域の王様になりたい。」ことが目標。
・信長だけが天下布武をめざしていた。①京都を支配する(京都に近い:尾張・美濃・伊勢・近江を平定)②徳川と同盟(東方を徳川に任す)。
・伊達家、島津家などが京都を支配できるであろうか。