真田一族の興亡

・日時:3月22日(火)am10時〜12時10分
・会場:すばるホール(3階会議室)(富田林市)
・講師:天野忠幸先生(関西大学非常勤講師)
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○真田氏
信濃国小県(ちいさがた)郡真田郷を根拠とした小豪族で、東信濃に勢力を築いた滋野(しげの)一族海野氏の分流と言われる。真田は古来交通の要地であった。
真田幸綱(1513−1574年)〜真田家の再興〜
・戦国時代、真田幸綱は武田信玄に属し、活躍したことで、真田氏発展の礎を築いた。
・岩櫃城(群馬県東吾妻町)の城主に出世。
・真田氏は、「国衆」(くにしゅう)→”家臣”でなく、自治権(所領維持を最優先)を持ち、戦争のときだけ参加。
真田信綱(1528−1575年)〜長篠の戦いに死す〜
・幸綱の後継者で、信濃最大の国衆に成長。
・「長篠の戦い」〈天正3(1575)年〉…織田軍と武田軍が長篠(愛知県南部)で激突。騎馬突撃を強力な鉄砲隊に防衛され、武田軍惨敗。この戦争で、真田家からは信綱と昌輝の兄弟が討死、武田の重臣も戦死。


真田昌幸(1547−1611年)〜独立大名へ〜
・幸綱の三男。7歳で武田家に人質として甲府へ。信玄の近習に登用。
・天正3年(1575)「長篠の戦い」で、当主・信綱が討死→昌幸が家督を継ぐ。
・1578年:「上杉謙信の死去」
・1580年:昌幸は沼田城を攻略(沼田城は北上州を制するには欠かせない要地)。
・天正10年(1582):「武田家の滅亡」(3月11日)、その3ヶ月後、本能寺の変(6月2日)。
**本能寺の変後、旧武田領(甲斐・信濃・西上野)をめぐって、徳川・上杉・北条の三大勢力が覇権を争う。(いわゆる「天正壬午の乱」)→昌幸は、最初、織田方の滝川一益、次に北条、そして徳川。ところが徳川が勝手に真田の沼田城を譲ることで北条と結ぶ。昌幸は断固としてこれを拒否。ここで昌幸は、上杉への再従属を模索する。次男・弁丸(信繁)を上杉に人質として送る。→「第一次上田戦争」〈天正13年(1585)〉徳川軍を撃退。…その後、真田氏は、秀吉配下の独立大名になる。
**関ケ原の戦い
・「犬伏の別れ」…父子3人で真田家の去就について下野・犬伏で話し合った。結果は、昌幸と信繁は、西軍(石田方)、信之は東軍(徳川方)。信繁の妻は大谷吉継(三成方の重鎮)の娘。一方、信之の妻・小松姫は本田忠勝の娘であり、家康の養女。つまり、姻戚関係に義理を立てて分かれる形になったのだが、いずれかが負けても真田の家名を残したいという意図もあったのであろう。
・「第二次上田戦争」…秀忠率いる徳川本隊3万8千は、関が原に向かうついでに真田を平定すべきく上田城に向かう。迎え撃つ昌幸・信繁の軍はわずか3000。→秀忠軍は昌幸に翻弄されて関ケ原合戦に遅参。家康は秀忠と会わず。
・信之の助命嘆願により、昌幸・信繁は高野山に追放。


真田信繁(1567−1615年)〜「日本一の兵」の武名〜
・信繁30代の半ばで、高野山から九度山に蟄居。家臣は16人から3人に減少。父・昌幸はこの地で死去(慶長16年、65歳)。
・大坂の陣のとき、百姓の応援で九度山を脱出?。信繁は、全国的には無名だったといわれる。信濃(上田)から50騎が集結してくれた(信繁の手持ちの50人がいなかったら何もできなかったと思われる。)
・大坂冬の陣、真田丸の戦で、信繁の名前が上がる。
・大坂夏の陣、天王寺の戦いで戦死。
真田信之(1566-1658年)〜松代十万石の藩祖〜
・徳川の陣中で、その父が西軍に属していることは、後ろめたいことでだったろう。信之は恩賞にかえて父弟の助命を乞うたので、昌幸・信繁は、高野山へ赴いた。
・信之は、関ケ原後、上田領9万5千石を与えられた。
・元和8(1622)年、第4代家綱の時、松代10万石へ加増転封(松代藩の真田氏は幕末まで続いた。)
・明暦2(1656)年、91歳にしてようやく隠居の許可。
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**あとがき**
■「日本一の兵(つわもの)」
・大久保彦左衛門によると徳川家康の本陣の旗が倒されたのは、三方が原の戦いと大坂夏の陣に信繁に突き崩されたときの二回だけという。(『三河物語』)
・島津家久は、大坂落城直後、国元に送った手紙に「御所様(家康)の御陣へ真田左衛門佐が攻めかけ御陣衆を追い散らし討ち捕った。…真田日本一の兵、いにしへよりの物語にもないこと。」→信繁の活躍は、大坂落城直後から「日本一」と誉めたたえられていた。
■武士の名前について
・信綱の「信」は、武田信玄の偏諱(へんき)(二字の名の一方の文字)を拝領。昌幸は信玄の先祖の武田信昌から「昌」を拝領。…「信」などをもらったということは、武田家から認められたいうことで喜ばしいこと。
・真田信繁は、幼名「弁丸」「源次郎」から「信繁」と名前を変えている。本名を呼ぶのは失礼だとされ、一般的には、役職であった左衛門佐(さえもんのすけ)と呼ばれた。
・「幸村」という名前はなく、最初に登場するのは江戸時代前期の軍記物語『難波戦記』といわれている。
■戦国時代は、敵味方がぐるぐる変わる時代。東信濃の山間の小土豪に過ぎなかった真田氏は、武田信玄に仕えて頭角をあらわし、武田の滅亡後、独立の大名になった。しかし、徳川、北条、上杉らの大勢力に囲まれては、その独立を保つのは容易ではない。昌幸は、いくたびの難局を乗り越えて独立を保ちえた。また、諸勢力に間に挟まって、一種のキャスティング・ボードを握る立場もあった。
○昌幸は、現代に例えると、大企業に囲まれながら、独立経営を守る中小企業の社長ではなかろうか。