木簡からみた古代の食−長屋王家木簡を中心に−

・日時:4月12日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:市 大樹(いち ひろき)先生(大阪大学准教授)
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○長屋王家木簡の発見(1988年)
平城宮の東南部に、「そごうデパート」が建設されることになり、それに先立つ発掘調査で、ゴミ捨て用の溝状の土坑(長さ約27m、幅約3m、深さ約1m)などから、約3万5000点もの木簡が出土。木簡の中には「長屋親王宮鮑大贄十編」の記載があり、この邸宅は長屋王に関係するものであることが明らかになった。平城宮内では発掘調査で邸宅の住人の名前が判明したのは希有の事例で、木簡群は長屋王家木簡と命名された。
・長屋王邸の大きさ…四町(坪)−約6万平方メートル
・出土木簡の年次…木簡の中で年次が記されている例は和同3年(710)から霊亀3年(717)まで。

◆長屋王家の家政機関(右の資料を参照)
木簡によれば、事務全般を差配する長屋王家令所(政所などとも)を中核とし、各種の部署…主食の飯をあつかう大炊司(おおいのつかさ)、生菜をあつかう菜司(さいし)、食膳を整える膳司(ぜんし)、そのほか酒司(しゅし)、染司・綿作司・工司・仏造司のほか、この邸で飼育していた犬や鶴などを管理する犬司・鶴司・馬司などもみられる。
・これらの木簡にみられる各施設は、この邸の食事から衣服の世話、金属製品の製造など日常の生活物資をささえるさまざまな施設を家政機関として保持していた。

◆畿内の御田・御園から送られた食材(右の資料を参照)
私的な財産である、御田(みた)とか御園(みその)とか木簡にみえるもので、長屋王たちの直営地。長屋王家から派遣された職員が直接管理で、実際の耕作は周辺の人々を雇用する.形の直接経営だった。
《御田・御園からの収穫物は、進上木簡を添えて長屋王邸にもたらされた。》
*木上からの進上(たてまつる)。…長屋王やその一族が日々口にする米を、日々少量ずつ(3斗が基本)を運ぶ。
*都祁(つげ)から氷の進上。…夏には氷室(ひむろ)から氷を調達していた。

◆諸国から貢進された食材
諸国からの貢進物は、荷札木簡を装着して貢進。…貢進国は36ヵ国。近江・越前・周防・讃岐の4ヵ国が大半を占める。
*古代でも肉を食べている…鹿(シカ)、宍=猪(イノシシ)
*魚類はナマのまま運送するのは難しく、加工する(塩で味付けをしたアジ、酢漬けのアユ、鮒ずしなど)。
*御田・御園から進上された食材と比較すると、共通するのは米だけ。諸国からは蔬菜類は全く貢進されていない。

出土した木簡(抜粋)(右の資料を参照)
2.山背(河内)御園から大根、さまざまな生菜が進上。−和銅七年 大人(うし)(責任者)
8.この木簡から、この邸宅が長屋王に.関係するものであることが明らかになった。
12.筑前国宗像郡とのつながり…高市皇子の母は宗像郡の出身。この木簡には、宗像郡から醤油漬けの鯛を進上。
17.長屋王家では、牛乳を飲んでいた。(牛乳は高級な飲み物。薬として使用か)
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**あとがき**
・木簡…地中から発見された木製品のうち、墨の字で書いてあるものを、広く木簡と呼んでいる。日本の木簡のほとんどは、地下から廃棄されたままの状態で出土(ゴミとして捨てられていたもの)。木片が腐らずに残るためには、常に乾燥した環境か、逆に湿潤な環境(十分な地下水)があることが必要である。もう一つ大事なのは、土中にパックされ、日光と空気から遮断された環境である。
◇木簡の出土数…わが国では、現在、約40万点。発掘によって見つかる墨書のある木片をすべて捉えているので、時代も古代だけでなく中世・近世、さらに近代の木簡も含んでいる。⇔参考、朝鮮半島の出土の木簡数は、現在、約700余点が確認されている。