小山田遺跡の蘇我蝦夷説と河内磯長

・4月26日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:上野勝己先生(元太子町竹内街道歴史資料館館長)
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○「小山田遺跡・新聞発表」 (2015年1月16日)(*右は毎日新聞に掲載)
奈良県明日香村川原の小山田(こやまだ)遺跡で、巨大な古墳の一部が出土した。
【橿原考古学研究所・発掘調査結果(抜粋)】−①貼石、敷石及び板石積みで構成される掘割を検出した。②この遺構の時期は、7世紀中頃となる可能性が考えられる。③50m以上の方墳になると考えられる。

1.小山田遺跡の被葬者は?
◆小山田遺跡=舒明天皇の最初の墓説
日本書紀によると、舒明天皇は百済宮で亡くなり、約1年後(642年)に、「滑谷岡」(なめはざまのおか)に葬られたが、その場所は不明。約9か月後に改葬されたのが段ノ塚古墳(桜井市)と考えられている。→今回の石溝と同じように、段ノ塚古墳は室生安山岩が階段状に積まれていたことなどから、段ノ塚への改葬前の舒明陵ではないかという見方。
◆小山田遺跡=蘇我氏の墓説
発掘場所が蘇我氏の邸宅があった甘樫丘に近く、蝦夷・入鹿親子の墓として、日本書紀に登場する「双墓」(ならびのはか)のうち蝦夷の「大陵」ではないかという見方がある。
◆その他に、小山田遺跡=斉明天皇説、皇子クラスの居宅跡説、未知の構造物説などがある。…これまでの調査では、墳丘の痕跡は未確認。今後の調査が期待される。

2.『日本書紀』編纂の問題点
奈良時代の7世紀後半、天武天皇の命により編纂が始まり、ほぼ同じ時期に完成したのが『古事記』と『日本書紀』。…『古事記』は、712年(和同5年)、太安万侶が元明天皇に献上。『日本書紀』は、720年(養老4年)、舎人親王が元正天皇に撰上。
◇記紀に共通する記述は、天武朝に作成された「帝紀」・「旧辞」にもとづく可能性が高い。
*「乙巳(いっし)の変」(645年)…中大兄皇子(のちの「天智天皇」)と中臣(藤原)鎌足が、蘇我入鹿を宮中で暗殺。入鹿が殺害されたことを知った蝦夷は、自邸に火を放って自害した。→『日本書紀』は天智天皇側の目線で、蘇我氏の暗殺を正当化するために、蘇我氏の専横を誇張して描いている。
★推古天皇の薄葬遺詔[推古36年(628年)9月20日]−「天皇は郡臣に、この頃五穀が実らず、百姓は大いに飢えている。私のために、陵(みささぎ)を建てて、厚く葬ってはならぬ。ただ竹田皇子の陵に葬ればよい。」⇔蘇我蝦夷の双墓[皇極天皇元年(642年)12月]−「蘇我蝦夷は、双墓(ならびのはか)を生前に、今来(いまき)(御所市)に造った。一つを大陵といい、蝦夷の墓。一つを小陵といい、入鹿の墓とした。…こうしたことから恨みをかって、二人は後に滅ぼされる。」と『日本書紀』に書かれている。

南河内に伝わる蘇我蝦夷塚(*右は海老塚)
①太子町葉室(はむろ)東南にある蘇我蝦夷塚は、一般に海老塚(えびつか)と呼ばれ、今は塚上に小さい祠(ほこら)を建て善女龍王をまつり、雨乞の神としても昔から信仰されてきた。
②初見資料…「河内名所図会」(江戸時代・1801年)が初見資料で、「海老塚、同村にあり、塚上に善女龍王を祭る」
③「蘇我蝦夷の墓」とも「坂上田村麿の蝦夷討伐による俘虜の墓」とも伝えているが、蝦夷の墓というのは、蝦夷の名のこじつけの説にすぎない。(1927年大阪府学務部)。
(注)河内磯長にある古墳群は、蘇我系の天皇や大豪族のものである。