「考古学からみた継体朝の成立」

・日時:5月10日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:白石 太一郎先生(大阪府立近つ飛鳥博物館館長)
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『日本書紀』継体天皇即位
(要約) 『日本書紀』によれば、6世紀前半、「25代武烈天皇は18歳で、子がないまま没し、跡継ぎが絶えてしまうところであった。ヤマト王権の大連大伴金村が中心となって、越前(福井県)から男大迹王(おおどおう)=継体を迎える。継体は、河内の樟葉宮(くずはのみや)(大阪府枚方市)で即位する。その後、山背の筒城宮(つづきのみや・京都府田辺市)や山城の弟国宮(おとくにのみや・京都府向日市・長岡京市)の淀川流域の宮を転々とし、即位の20年後に大和の磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)(奈良県桜井市)に入ったと伝えられる。」
・男大迹王が大王即位の使者を迎えたときは、58歳であった。

継体による王権・王統の継承
継体は、応神天皇の五世孫
継体天皇の出自に関しては、三つの基礎史料がある。『古事記』『日本書紀』と『釈日本紀』所収の『上宮記』逸文の系譜。
・継体天皇は近江あるいは越前の出身とされる。→歴代の天皇は、ヤマト政権の本拠のあった大和か河内、和泉などの畿内の出身である。
・継体は「応神天皇五世孫」、つまり応神から数えて五代目で、かなり疎遠な傍系王族である。
継体の后妃
『古事記』では7人、『日本書紀』では9人のお妃が記されている。
・出身地で見ると、畿内では仁賢の手白香(たしらか)皇女、豪族では和珥臣(わにのおみ)、茨田連(まんだのむらじ)。近江の豪族では、息長(おきなが)、坂田、三尾君(みおのきみ)。地方豪族では、尾張連(おわりのむらじ)。
*「仁賢天皇の娘の手白香皇女」との婚姻は、大和の王家と婚姻関係を結び、入り婿の形をとることによって、その王権の正当性について承認を受けることができたと考えられる。

考古学から見た継体朝の成立
①ヤマト王権の支配地域
古墳時代を通じて、倭国王権を含む墳丘長200m以上の大型前方後円墳が数多く営まれるのが、畿内南部の大和・柳本古墳群、佐紀古墳群、古市古墳群、百舌鳥古墳群など、すべて畿内南部の地域であり、北部ではわずかに三島野古墳群に太田茶臼山古墳が一基見られるにすぎない。ヤマト王権の本来的な基盤は、畿内南部の大和川水系を中心とする大和・河内であった。
②継体を擁立した勢力
継体大王は、王位についてから樟葉宮・筒城宮・弟国宮など淀川流域の宮を転々とし、20年後に大和に入ることができたた伝えられる。その背景には、それまでヤマト王権を支えた勢力と継体大王を擁立した勢力との対立があったとも考えられる。この時期には、山城の宇治二子塚古墳や尾張の断夫山古墳など、これまで大型古墳が築かれた地域とは別の地域に大型の古墳が築造されるようになる。これらの古墳は、継体大王を支援した勢力が、東海・北陸・近江・淀川流域の首長たちであったことを物語る。
■「今城塚古墳」(いましろづかこふん)…継体の墓は、なぜか摂津三島にある。
継体は531年に没し、遺骸は摂津三島の藍野陵に葬られた。
今城塚古墳は、考古学からみた継体陵。嶋上郡にあり、円筒埴輪や古墳の形から、6世紀前半の築造で、最大級の前方後円墳。墳丘190m。
(注)現在、宮内庁は太田茶臼山古墳を継体陵に比定。⇒太田茶臼山古墳は五世紀中頃の古墳。また、『延喜式』によると、継体の墓は「三島藍野陵」とされ、摂津国嶋上郡にあるとされているが、太田茶臼山古墳は「嶋下郡」に所在。
■「断夫山古墳」(だんぷざんこふん)
名古屋市熱田区にある東海地方最大の前方後円墳。墳丘長150m。採集された円筒埴輪や墳形から6世紀前半の年代が推定。継体天皇を支持した尾張連氏にかかわる墓とする説が有力。