芭蕉『奥の細道』の旅空間(八)

・日時:5月12日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:根来 尚子先生(柿衛文庫)
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**前回までの復習**(第一回〜第七回)
芭蕉が門人の曾良を伴って、みちのくの旅に出たのは、元禄二年(1689)。江戸・深川を3月に出発し、東北・北陸を経て、8月に美濃の大垣に到着。その間150日、全行程600里(2400km)。。
★【旅立ち〜松島まで…句でたどる】(抜粋)
「草の戸を住替る代ぞひなの家」(江戸・深川)
「行春や鳥啼き魚の目は泪」(千住)
「あらたうと青葉若葉の日の光」(日光)
「野を横に馬牽きむけよほととぎす」(殺生石)
「田一枚植えて立去る柳かな」(遊行柳)
「風流の初や奥の田植うた」(須賀川)
「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」(宮城野)

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第八回…松島から「瑞巌寺」「石巻」「平泉」
芭蕉は、3月27日(陽暦5月16日)に江戸・深川を出発し、1ヶ月半、この旅の大きな目的の一つであった平泉に5月13日(陽暦6月29日)に到着した。
(一)瑞巌寺・石巻
(概説)「5月11日、瑞巌寺(ずいがんじ)に参詣した。12日、平泉に行こうと出発したが、道を間違えて、石巻(いしのまき)という港に出た。金崋山を海上遠くに見やり、近くを見ると数百艘の運送船が湾内に集まり、人家はぎっしりと建ち並び、炊事の煙が数多く立ちのぼっている。…宿を借りようとしたけれど、全然宿を貸してくれる人がいない。やっとのことで、貧弱な小家に一夜を過ごした。…夜が明けて、再び知らない道を迷いながら歩き続け、北上川の長い堤の上の道を歩く。なんとなく心細い感じのする長い沼に沿って進み、登米(とよま)という所に一泊して、平泉についた。松島から平泉までの距離は、二十余里ほどと思われた。

(二)平泉(*右の資料を参照)
この章は、『おくのほそ道』の中では、一、二を争う名文であり、名句です。
(現代語訳)「藤原三代(清衡・基衡・秀衡)の栄華も、はかなく消えさり、秀衡の館の跡は田や野になっている。金鶏山(きんけいざん)だけが昔のままの姿をとどめている。何よりも第一に高館(たかだち)に登る。源義経はこの高館の城に立てこもり、秀衡の死後、その子・泰衡の奇襲に遭い、31歳の生涯を閉じた。
「夏草や兵共が夢の跡」(芭蕉)季語:夏草(夏)
・「夏草や」の句の解釈…平泉での句で、義経主従が討死をした高館での吟である。「夏草や」という悠久の自然の詠嘆(夏草は草いきれがするほど生命力が強く、乱雑に繁茂し、秋になれば滅びていくものである)によって、逆に藤原三代の栄華や義経主従をしのぶ気持ちを強調する句。

「前々から話に聞いていた経堂・光堂の二堂が開帳していた。経堂は藤原三代の像を残しており、光堂にはこの三代の人々の棺を納め、仏像を安置してある。放置しておけば、むなしく廃墟となってしまうところを、四方を新しく囲んで、上には屋根に覆いをして風雨を耐えしのぎ、千年の昔をしのぶ記念物となって残っているのである。」
「五月雨を降りのこしてや光堂」 (芭蕉)季語:五月雨(夏)
・「五月雨を」の句の解釈…長い歳月と五月雨を凌いできた光堂への賛嘆と、阿弥陀如来への崇敬の念を詠んだ句。
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**あとがき**
☆平泉の章は、「三代の栄耀一睡の中にして」で始まり、「国敗れて山河あり。草青みたり…。時のうつるまで泪を落しぬ。」の文章と「夏草や」の句が一体となって、見事な一章を作り上げています。(芭蕉は感動の高まった場面では、漢文調の文章を用いています。)
☆「五月雨の降りのこしてや光堂」の句の初案は「五月雨や年々降りて五百たひ」であることが曾良本でわかる。あらゆるものを朽ちさせる五月雨から、長い歳月の間、風雨をしのいで来た「光堂」(ひかりどう)に対する賛嘆の気持ちをこめた表現にした。(芭蕉は、句を改作したり、後で入れたりしている。また、事実(日程など)も変更していることもある。単なる紀行文ではなく、文学的な作品となっている。)