「始皇帝と兵馬俑」前編〜天下統一までの軌跡〜

・日時:5月17日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:来村多加史先生(阪南大学教授)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■「秦公・秦王の系譜」−春秋中期〜秦代−
◇【中国の歴史】
殷周王朝—西周時代—春秋・戦国時代(前770〜221年)—秦の中国統一(前221−206年)—前漢・・・
・BC770年、周王朝の権威が落ちて、覇権をめぐって各地の有力な諸侯が争うようになる。これ以降、秦の始皇帝が中国を統一するまで約550年間を「春秋・戦国時代」と呼ぶ。
・戦国の七雄・・・燕・斉・韓・魏・趙・楚・秦の七国。
◇【秦王朝】
「秦」は、西周時代に馬の飼育で王朝に認められ、西から侵入する異民族を防ぐ楯としての役割をした。(秦の本拠地は、現在の西安を中心とする一帯ではない。西の奥地の山岳地帯。)…初代の襄公(じょうこう)(前777-766)が周王朝から諸侯の地位を認められ渭水平原の西半分を領地として与えられた時に始まる。。→9代の穆公(ぼくこう)(前659-621)のとき有力な諸侯となる。→25代の孝公(こうこう)(前361-338)のとき、商鞅(しょうおう)を登用して、内政改革し強国となる。前350年には咸陽に都。東に拠点を移した。→28代の昭襄王(前306-251)のとき領土を拡大。そして31代の政(せい)(前246-221)(後の始皇帝)が即位し、他の6国を次々に撃破し、ついに中国を統一。

■「戦国秦国の発展史」−商鞅の変法
商鞅(しょうおう)(前390-338)は、秦の孝公に登用され、2度の変法によって秦を強大化させた。特に、商鞅がすすめた軍功授爵の軍事改革は、秦軍の士気を大いに高め、他国を圧倒する軍事力を生み出した。
*「軍功授爵」(ぐんこうじゅしゃく)とは、軍功に応じて爵位を上げる制度で、昭襄王の時代に秦が快進撃を始め、秦王政が天下統一の基盤ができたのは、ひとえに商鞅の改革のなせるわざであった。
・(注)「変法」とは、諸子百家(法家)による政治改革を変法という。

始皇帝の天下統一
・始皇帝(前259-210)(在位前247-210)中国、第31代の王で、中国の国内統一した最初の皇帝。名は政で荘襄王の子(一説では呂不韋(りょふい)を実父とする)。趙の都、邯鄲(かんたん)で生まれた。前246年、13歳で秦王となった。呂不韋を宰相として国政を握る。即位10年に、母太后と密通した嫪毒(ろうあい)を誅殺し、連座した呂不韋をしりぞける。
・秦将の王翦(おうせん)・王賁(おうほん)等を派遣して、前230年に韓を、続いて趙・魏を滅ぼすと、前223年に楚を、続いて燕・斉を滅ぼして、前221年に天下を統一する。秦王政39歳のときである。
◇秦王政が、始皇帝と自称し、大規模な宮殿と帝陵の造営を始める。
【始皇帝の主な統一事業】
・諸制度の統一…度量衡や車の幅の統一、文字、貨幣(半両銭)
・郡県制を全国に及ぼす。焚書坑儒(政治批判の書や儒者の排除-言論・思想の統制)
・大規模な土木事業…万里の長城、首都(咸陽)の造営、統一した10年後に巨大な阿房宮の建設(天体をかたどった構造)、即位後から驪山(りざん)(始皇帝陵)の造営、幹線道路(咸陽から北地への直道−総延長7500km)など。
・統一の翌年から崩御するまでの十年の間、五回にわたる全国巡行
—————————————————
《次回の講義案内》
・6月14日(火)午前10時〜12時
・演題:「始皇帝と兵馬俑」後編−始皇帝陵と兵馬俑坑−
・講師:来村多加史先生