・日時:5月24日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:簑原俊洋先生(神戸大学教授)
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○日本の暗号解読能力
1.(長らく通説)…日本の暗号解読能力は無くて、独からの情報により解読されていた。
2.史料の発見
★米国立公文書館所蔵(日本の機密文書)…接収資料からいくつかの不思議な電文を発見。これによると、「日本は外交暗号を解読する能力を保持していた」。
★日本外務省外交史料館所蔵(特殊情報綴)…焼却されるはずの書類から、米英の解読された国家機密が発見。
3.日本の暗号解読研究
・当初、ポーランド(コワレスキー大尉)に学ぶ。
・陸軍・海軍・外務・逓信の四省は、外交暗号の研究を進めていた。暗号解読技術は、陸海軍は別個に研究を進め、1941年に太平洋戦争が始まるころには、米英ソの外交暗号や中国の軍事暗号については、ほとんど解読できるようになっていた。
(注)日本側の暗号は、戦前・戦中を通じ、外交暗号のほとんどが欧米(特に米国)に解読されていた。
○危機下における政策決定(日米交渉)
「ハル・ノート」へとつながる1941年の日米交渉をケース・スタディーとして、暗号解読の事実を組み込みながら、この時期の日米関係を再編成する。
(1)アメリカと戦争するのはナンセンス
当時、日本の輸出入の大半は、アメリカ。…石油の輸入は、約75%。生糸の輸出は、約90%が米国。
(2)日米交渉
全面戦争の回避ということでは日米とも一致しており、1941年4月からワシントンで日米交渉。
・7月:日本軍が南部仏印(フランス領インドシナ南部)に進駐。
・8月:鉄屑や石油の対日輸出を中止し、ABCD包囲陣(米・英・中・蘭)による日本に対する経済封鎖。
・10月:日米交渉にゆきづまって第3次近衛内閣が退陣。東条英機内閣成立(戦争回避の内閣)。積極的に日米交渉をおこなった。東条は非戦論に傾いており、外務大臣には平和主義として知られた東郷茂徳(とうごうしげのり)が入閣。
■「乙案」と「暫定協定案」
☆日本案
甲案…日中和平を条件に、2年以内に撤退
乙案…南部仏印から撤退する。見返りにアメリカは石油などの輸出に応ずる。
☆米国案
ハル四原則…中国の領土保全、中国に対する内政不干渉、中国の門戸開放、中国の現状維持(仏印と中国からの完全撤退など、満州事変以前の状態への復帰を要求した。)
★米国の「暫定協定案」が作られる。
東郷外相は米国の暗号解読から、日本の「乙案」に通じる妥協案が作られ、各国政府に提案するところまできていると期待。
◆1941年11月22日:英・豪・蘭・中の各大使・公使がハル国務長官と会談。(暫定協定案が提示された。中国以外のメンバーは満足。)…しかし、4日後(11月26日)に日本政府に渡されたハル・ノートは、暫定協定案の痕跡は全くなく、ハル四原則のみであった。
それをみた東郷外相は、眼がくらみ、和平は断念する。(東郷は開戦論に転じた)⇒その瞬間、戦争は確実なものとなる〝ルビコン川を渡った”瞬間である。
〇歴史のイフ
・東郷外相は対米戦争に反対していた。なぜ、外相は戦争内閣にとどまっていたのか。
「東郷外相が暫定協定案の内容について知らなければ、間違いなく辞職したであろう。となれば、その後の作戦に支障をきたし、戦争というオフションはあり得なくなった可能性もある。」
・情報は「魔物」である。限られた情報から、思い込みとシナリオの達成がなされる。
・ハル・ノートで交戦が絶望的になっても、まだ開戦阻止の動きがあった。しかし、日本側はオールジャパンではなく、陸軍は和平に反対であった。
★日本では、ハル・ノートを事実上の最後通牒、また、宣戦布告であると受け取った。
12月1日御前会議。開戦日が12月8日と最終決定されたことをうけ、12月2日午後5時30分、連合艦隊司令官からハワイオアフ島真珠湾に向けて出航していた機動部隊へ、「ニイタカヤマノボレ」との命令が発せられた。…(日米交渉成立せば、「ツクバヤマハレ」(連合艦隊帰還せよ)の可能性があったのでは?)