日韓古代寺院の比較−伽藍配置を中心に−

・日時:7月12日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:佐藤興治先生(奈良文化財研究所名誉研究員)
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1.仏教の伝来
紀元前6〜5世紀にヒマラヤ山麓の王族からでた釈迦が説いた仏教は、中央アジア(西域)・中国・朝鮮半島を経由して日本に伝えられた。朝鮮半島に仏教が伝わるのは、高句麗と百済が四世紀後半、新羅へは、五世紀の初めに公伝されている。そして日本には、百済の聖明王が538年に仏像と経綸を送ってきたのが仏教の公伝とされる。
◆日本における仏教の公伝には、538年説と552年説がある。
・538年説…『元興寺縁起』(安閑天皇五年)
・552年説…『日本書紀』(欽明天皇十三年)
必ずしも、538年、552年に限られた年にだけ、仏像や経典などが伝わったのではなく、そのころ、ある一定期間に数度にわたっておこなわれていた。
2.仏教の受容
受容にあたっては、中臣氏、物部氏などの反対派(廃仏派)による仏像や仏殿の焼き捨てがあった。しかし、崇仏派の蘇我氏は渡来系氏族の協力を得て造仏と造寺を積極的に進める。

3.飛鳥時代の仏教と寺院(抜粋)
飛鳥寺の創建(588〜596年)【日本最初の本格的寺院】
草堂とよばれる簡易な寺院は飛鳥寺以前にもあったが、本格的な寺院は飛鳥寺が最初。飛鳥の地に、蘇我氏の氏寺(うじてら)として、飛鳥寺(法興寺)を建立。
・『日本書紀』[崇峻天皇元年(588年)]…「百済が仏舎利を献じ、僧侶・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工を贈る。」(百済からきた寺工・鑪盤博士(塔の相輪を鋳造する技術者)・瓦の技術者らが建築にあたった。)
・飛鳥寺は596年に竣工したが、本尊の丈六銅像は、造仏工の鞍作鳥(くらつくりのとり)(止利仏師)が606年に完成し、飛鳥寺の金堂に安置した(日本最古の仏像)。
*飛鳥寺は、高句麗の形式(平壌・清岩里廃寺などにみられる)を踏襲した「一塔三金堂」を配する伽藍。…伽藍の配置は塔が最も重視され、三つの金堂に取り囲まれる。
■伽藍配置の変遷
私宅内の仏堂⇒飛鳥寺式⇒四天王寺式⇒法隆寺式⇒薬師寺式
・「四天王寺式」…7世紀初頭、中軸線上に、中門・塔・金堂・講堂が北に一直線上に並べる形式。韓国三国時代の百済の寺院に見られる形式。
・「法隆寺式」…7世紀末から8世紀初頭にかけて再建された法隆寺西院伽藍は、回廊内の左に塔、右に金堂が並置して建つ形式。
・「薬師寺式」…二塔一金堂式で、東西の塔は回廊の内側に建つ形式。新羅の寺院にみられる形式。
*(塔)…仏舎利(仏陀の骨)を納めた建物。

4.寺院のひろがり
・『日本書紀』[推古天皇三十二年(624)]…全国で46か所の寺院が建てられ(ほとんどが近畿地方に限られている)、僧は816名、尼は596名。
・7世紀後半の奈良前期(白鳳期)には、近畿を中心にして九州、東国にも広がり、寺院数は100を超える。…伝来からわずか二世紀たらずの間、仏教は地方へ急速に伝播した。
渡来系技術者の活躍(これなくしては、仏教のひろがりはなかった)
・仏教は、民間には「公伝」より以前に伝えられていた。すでに、6世紀初め、鞍作鳥の祖父・司馬(鞍作)達等(大唐漢人)らが、日本に渡来し、大和の高市郡坂田原で草塔をむすび、仏像を置いて礼拝したといわれる。(扶桑略記、継体16年・522年)。
・聖徳太子は、僧慧慈(えじ)(高句麗)、僧慧聰(えそう)(百済)に仏教をまなび、四天王寺・法隆寺など7ヵ寺をつくる。
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**あとがき**
・6世紀に伝えられた仏教は、はじめ豪族たちに信仰され、7世紀初めの飛鳥時代には、畿内の豪族が氏寺(うじでら)を建てた。この時代の文化は、中国の南北朝と朝鮮三国の文化の影響を強く受けている。⇒白鳳文化(7世紀後半〜8世紀初頭)は、新羅を介して、唐初期の影響。⇒奈良時代(710年〜)、仏教とともに国を創っていく(鎮護国家の仏教)(国分寺の造立)…日本は、中国・韓国の影響を受けながら、日本風に変えていく。