「聖徳太子はいなかった」は本当か? (1)


日時:9月6日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:平林章仁先生(龍谷大学教授)
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序論
近年、『日本書紀』をはじめ、関連所伝の信憑性に疑問が投げかけられ、厩戸皇子という人物は存在したけれども、「聖徳太子はいなかった」という聖徳太子非実在説が主張されている。…「聖徳太子は虚像であったと言い得る」のか、2回の講義でその可否を検討します。
Ⅰ.聖徳太子の名に関する『日本書紀』『古事記』『風土記』の記事
◆『日本書紀』推古天皇
「…厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみ)を立てて、皇太子とす。…父は橘豊日天皇(用明天皇)。母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)が、出産予定日に禁中を巡察しているとき、馬官の所で、厩の戸にあたられた拍子に出産された。…父の天皇が可愛がられて、宮殿の南の上宮に住まわされた。それで、上宮厩戸豊聡耳太子という。…(以下省略)」
*『日本書紀』には、聖徳太子の名称がみえない。「厩戸(うまやと)皇子」、「豊聡耳(とよとみみ)」、「上宮(かみつみや)」が用いられている。
・『日本書紀』:天武天皇が編纂を命ずる。舎人親王らが編纂し、720年完成。天地開闢〜持統天皇までを収録。日本の正史。全30巻。
◆『古事記』用明天皇
「用明天皇が間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)と結婚して、産んだ子は、上宮の厩戸豊聡耳命、次に久米王…四人。…(以下省略)」
◆『播磨風土記』、『続日本紀』については省略


Ⅱ.聖徳太子に関する近年の一般的な記述資料(抜粋)
吉村武彦『聖徳太子』(岩波書店、2002年)
「厩戸王子と聖徳太子を区別する。…実在した厩戸王子と〈伝説的な信仰上の聖徳太子〉。…厩戸王子という名は、実名だった可能性が強い。当時、実名の使用は避けられたので、日常的には〈上宮〉の名が使われた。…(以下省略)」
篠山晴生・佐藤信他編『詳説日本史B』 (山川出版社、2015年)(高校の教科書)
「敏達天皇の后であった推古天皇が新たに即位し、…蘇我馬子や厩戸王(聖徳太子)らが協力して国家組織の形成を進めた。」
〇吉川真司『飛鳥の都』(岩波書店)、倉本一宏「大王の朝廷と推古朝」(岩波書店)。


Ⅲ.聖徳太子非実在説の記述資料
大山誠一『聖徳太子の誕生』 (吉川弘文館、1999年)
「聖徳太子の人物像は、奈良時代になって、当時の権力の中枢にいた藤原不比等や長屋王・僧道慈らの手によって『書紀』編纂時に作られたものである。…王族(皇族)に厩戸王(厩戸皇子)なる人は存在したかも知れないが『書紀』が描く聖徳太子という人物は全くの架空の人物である。…(以下省略)」
〇大山誠一『日本書紀の謎と聖徳太子』(平凡社、2011年)
(記紀の編纂と聖徳太子)「『日本書紀の』の編纂時期に、遣唐使(702年)が帰国して、中国文化が流入して、王権の権威を高めるために、王家の家系の中から人物を選び、中国思想の聖人を仕立てることにした。そして選ばれたのが、厩戸王であった。…(以下省略)」
・大山誠一氏の記述により、「聖徳太子はいなかった」論が広がる。
大山誠一説に対する批判
*佐伯有清・田中嗣人・山尾幸久『聖徳太子の実像と虚像』…「大山誠一説に対して、未成熟な非実在説を世に問われるのは、社会的に悪影響を及ぼしかねないと批判。」
聖徳太子非実在論ではない近年の主な研究
*川勝守『聖徳太子と東アジア世界』、曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』、*大平聡『聖徳太子』、古市晃『日本歴史』、鈴木靖民『倭国史の展開と東アジア』、渡里恒信『古代史の研究』、*森田悌『推古朝と聖徳太子』など。

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**次回−「聖徳太子はいなかった」本当か?(2)**
《諸説紛々で、聖徳太子像を描くことが困難にみえる情況にある。》
(要因)
・関係所伝を「疑わしい・信用できない」等と切り捨てることを前提として論述が行われている。
・『日本書紀』の記載内容と編纂時の政治的動向を結びつけて、恣意的に解釈している点にも問題がある。

*日本書紀・古事記は、100年ほどの前の歴史を、極端な創作や大幅な捏造ができるであろうか。—(注)[聖徳太子(574−622年)、古事記712年 日本書紀720年]
*『日本書紀』推古天皇紀元年四月条にみえる称え名「上宮厩戸豊聡耳太子」について、所伝を分析。
…「上宮」(かならずしも北が上になることはない)、「豊聡耳」(それほどに頭が良かった)、「厩戸」(聖徳太子は厩で出産した)…厩戸皇子と馬匹文化・馬匹集団との関係は浅からぬものがあっとた思われる。ここにこそ聖徳太子の実像解明の鍵が存在すると思われる。(次回の講義は、H29年3月の予定)