『徒然草』〜心と言葉〜④無常ということ


・9月8日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:小野恭靖先生(大阪教育大学教授)
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**『徒然草』**
◇徒然草概説:鎌倉時代末期の元徳二年(1330)から翌年にかけて成立とされる随筆。序段を含め244段からなる。作者−兼好法師(卜部兼好)。
・序段:「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」
◇5回シリーズの講義…第1回(兼好法師とその時代)、第2回(達人と奇人)、第3回(生き方の美学)、今日は、第4回(無常ということ)。第5回は、来年3月の予定。

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〇第四回『徒然草』−無常ということ−
第七段(あだし野の露)(*右の資料を参照)
(意訳)「あだしの(京都嵯峨野の奥にあった墓地)の露のように、人の命ははかないものだが、その命の消えるときがなく、鳥部山(京都東山の一つ。麓に火葬場があった)の煙が立ち去らないでいるというように、永久にこの世に住みおおせることができる習いであったなら、どんなにか情趣もないことであろう。この世は、不定であるからこそおもしろいのだ。命あるものを見ると、人間ほど長生きするものはない。−かげろうは夕方を待たないで死に、夏の蝉が春や秋を知らないというようなこともある。…いつまでも満足せず、死ぬのが惜しいと思うなら、たとい千年を過ごしても、一夜の夢のように短い気がするであろう。…命が長ければ、それだけ恥も多い。…(以下、省略)」。

・鎌倉時代末期頃の平均寿命は、「人生50年」で現在の約半分程度。第七段に、「長くても、四十に足りない年頃で死ぬのがみっともなくないというものだ。」と書かれる。(この時代は、「四十の賀」といって40歳を老の始まりとし、長寿を願う祝いをした。)

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第百五十五段(世に従わん人は) (*右の資料を参照)
(意訳)「この世で社会生活する人は、まず時機(ちょうどよいタイミング)を知らなくてはならない。折にあわぬ事柄は、人がよく聞いてくれず、心にも合わないから、事が成就しない。…但し、病気や、子供を産むとか、死ぬことだけは、時機がはかれず、順序がよくないといって、中止することはできない。生・住・異・滅という移り変わっていく大事は、たとえば流れの激しい河が溢れて流れるようなもので、少しの間も停滞せず、まっしぐらに実現せられていくものだ。従って、成し遂げようと思う大事なことは、時機をはかったりしないで、あれこれと準備などをせずに、足踏みをして中止してはならい。…春が終わって夏になり、その夏が終わって秋が来るのではない。春のうちに夏の気配をはらみ、夏のうちから早くも秋の気配がし、秋はすぐに寒くなり。…木の葉の落ちるのは、先ず葉が落ちてそのあとで芽を出しているのではない。芽生えふくらんでくるから、こらえきれずに古い葉が落ちるのである。…生・老・病・死が移り変わってやってくるのは、四季の変化のそれ以上に早い。四季はそれでも順序があるが、死期は順序を待たないでやってくる。死は前から来るとは限らず、いつの間にか背後に迫っている。人はみんな死があることは知っている。しかし、思いかけずやってくる。沖の干潟は遠くに見えているのに、足もとの海岸から潮が満ちてくるようなものだ。」
・「生・住・異・滅」…四つの有為転変。四相。
・「生・老・病・死」…人間の根源にある四つの苦悩。仏教で「四苦」。
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**あとがき**
・上記の段のほかに、「第二十六段」(久しくおとづれぬ頃)、「第四十一段」(五月五日、賀茂の競馬を)、「第九十三段」(牛を売る者あり)、「第百八十九段」(今日は、その事をなさんと思へば)の講義。
*『徒然草』の背景にあるのは「無常観」。無常とは、常で無い。絶えず変化し続け、常に同じ状態であり続けるものはない。兼好法師は、この世も、人の命も、はかないからこそ、生きる価値があるという。