『百人一首』の作者たち−右大将道綱母−


・日時:10月6日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:小林一彦先生(京都産業大学教授)
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**「百人一首」の講義は、今日が第1回。**
『百人一首』について
・「百人歌仙」、「百人の秀歌」、「一人一首」、「全体で百首」
・百人の歌人から一首ずつを選んだもので、「古今集」から「続後撰集」にいたる勅撰集の中から選ばれている。時代のうえからは、奈良・平安・鎌倉の三期にわたり、天智天皇から順徳院にいたる百人の歌を収めている。
・撰者は藤原定家とされている。文暦二年(1235)頃、「百人一首」の原型が作られたといわれる。【藤原定家(応保ニ年(1162)〜仁治二年(1241))。『新古今和歌集』(1205年)撰者、『新勅撰和歌集』(1235年)撰者。】

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53 「嘆きつつひとり寝る夜の明るまはいかに久しきものとかはしる」(右大将道綱母)
(歌意)(五十三番)(嘆きながらひとりで寝る夜の明けるまでの時間が、どれほど長いものか、ご存じでしょうか。きっとご存じないでしょう。)

◆作者:右大将道綱母
・摂政藤原兼家(かねいえ)の妻となり、右大将道綱を生む。この人は本朝三美人の一人といわれ、『大鏡』によると「きはめたる和歌の上手にて」と書かれる。『蜻蛉日記』の作者で、兼家との夫婦生活を描く。
・当時の女性の名前は伝わっていない。産んだ子の名をもって、「その母」として伝えられる。(女性の地位が低くて名前を呼ばなかったのではない。本名を呼ぶのは失礼なこと。男でも本名でなく役職名を呼んでいた。)
・(注)右上の摂関家系図を参照…道綱は道長の異母兄。必ずしも長男が継いでない。


出典−「拾遺集」、「蜻蛉日記」−における歌の成立状況の相違
◆『拾遺和歌集』(恋四)(右の資料を参照)
詞書(ことばかき)には、…夫である兼家がやってきたとき、門を遅く開けたところ、「立ち疲れた」と外から内に言葉をかけて寄越したので詠んだ歌。(岩波・新日本古典文学大系『拾遺和歌集』小町谷照彦訳)
◆『蜻蛉日記』
日記には、詳しいいきさつが.記されている。天暦九年(955)の初冬。「九月頃兼家の手箱に他の女にあてた手紙を発見、十月頃からは訪れも途絶えがちなっていた。そんな頃、兼家は用事があると出て行った(夫は町の小路の女の家に行っていた。)…それから二、三日たって、暁方に兼家は家を訪れるが、門を開けさせず、家に入れなかったところ、夫は町の小路の女の家にいった様子だったので、翌朝、色変わりした菊に、この歌を添えて贈った。」
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**あとがき**
・「長い時間待たせたあとに門を開けた」と詠んだのか、「門は開けなかった」と詠んだのか。→「門をおそくあけければ」は、”なかなか開けない”(結局、開けなかった)の意と思われる。(小林先生)
・『蜻蛉日記』は、、天暦八年(954)から天延ニ年(974)まで21年間にわたる兼家との結婚生活の記録。兼家は、上は内親王から、下は町の小路の女まで、幅広くつきあっている。(妻問婚は男が妻の所に通う形態で、夫婦は別居。)