・日時:10月25日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:来村多加史先生(阪南大学教授)
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○「大坂冬の陣」《徳川方:約20万人、豊臣方:約10万人》
**【慶長19年(1614年)11月19日〜12月19日】
・8月:大坂の陣の発端、「方広寺の鐘銘事件」。(鐘の銘文のなかに、「国家安康」・「君臣豊楽」の文字。家康が林羅山等に命じて解読させ、呪詛の疑いをかける。)
・10月:豊臣家の合戦準備(兵糧の調達や牢人の招聘)が本格化。家康も国友(近江)に鉄砲の製造を命じ、英蘭より大砲を購入。
・10月23日:家康が二条城に入り、秀忠が江戸城を出発。
・11月15日:家康の軍勢20万人が京都から奈良経由で大坂に向かう。
**11月19日:木津川口の戦い→11月26日:鴫野・今福の戦い→11月29日:博労淵・野田・福島の戦い…徳川方は、ほとんど豊臣方に邪魔されることなく大坂に集結し、大坂城を包囲(上記の合戦で、豊臣方は大坂城惣構の中に退き大坂城は徳川方に包囲された)。
**(注)大坂城は、本丸・二の丸・三の丸・惣構の四重構造で難攻不落の名城。
★12月4日:真田丸の戦い(*右上の写真を参照)
「前田利常隊、井伊直孝隊、松平忠直隊、藤堂高虎隊らが、圧倒的な兵力で真田丸を攻撃。しかし、堀・土壁・三重の柵など守りは強固で、加えて幸村軍が的確な銃矢攻撃を仕掛けたため、戦功を焦って統率の乱れた徳川軍は大敗。」
・真田丸は、従来の説では「大坂城の弱点である南東隅の平野口を固めるべく、惣構から突出した半円形の馬出しを築いた」。…近年の研究では、惣構から独立した守りよりも「攻め」の拠点であることが明らかになった。形状については、いろいろな説がある。
・幸村の軍勢は約6千人。冬の戦いでの交戦が少なかったことから、この真田丸の戦いが目立つ。しかし、冬の陣終了後、真田丸は破却された。
・家康は大きな衝撃を受けたと思われる。徳川方の敗退は、京都・奈良を始め、近隣に知れわたる。
**12月16日:大坂城内に向けて備前島などから大砲の一斉砲撃。⇒12月19日和議が成立。(外堀・二の丸・三の丸の埋め立て)。
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〇「大坂夏の陣」《徳川方:約16万人、豊臣方:7万8千人》
**【慶長20年(1615)4月26日〜5月8日】
・3月15日:京都所司代の板倉重勝が大坂に不穏な動きがあると駿府の家康に報告。
・4月4日:家康が駿府を出発。
・4月12日:豊臣方が金銀で浪人を集め、埋められた堀を掘り返し始める。
・4月22日:家康と秀忠が二条城で諸大名と軍議。
(注)豊臣方は、堀などが埋められたので、野戦において先手必勝で徳川軍を討つ戦法を選んだ。
**4月29日:泉南の樫井(かしい)の戦い→5月6日:未明から8時間交戦「小松山の戦い」(後藤又兵衛、討死)−「八尾・若江の戦い」(木村重成ら討死)−「道明寺の戦い」(薄田兼相、討死)−「誉田の戦い」(伊達政宗と真田信繁の戦い。膠着状態。)…豊臣方軍幕に八尾・若江方面での敗報が届き、伝令により、真田勢を殿軍として天王寺方面に撤退。
**5月7日:〈最後の決戦〉徳川方の全軍が平野から天下茶屋にかけて布陣。豊臣方は、岡山口・四天王・茶臼山に前線を張る。正午から3時頃までの激戦(真田信繁・毛利勝永らは、一時、家康・秀忠の本陣まで切り込む勢いを見せた)。…豊臣方の大半が壊滅し(天王寺・岡山の戦い)、深夜に大坂城が落城する。
**5月8日:秀頼・淀殿は毛利勝永の介錯により自害。大野治長をはじめとする近臣たちもあとを追った。…多くの町民が殺戮に遭う(『大坂夏の陣屏風』に描写)。
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**あとがき**
・真田幸村(信繁)は、甲斐で生まれ、上杉家・豊臣家への人質として越後・大坂で成長し、関ヶ原の戦いで、父の昌幸と信州上田城に籠って善戦したが、西軍が破れて開城し、紀州の九度山に幽閉された。
・大坂冬の陣(慶長19年)では、大坂城をめぐる攻防戦で、交戦が少なく、真田丸の戦いが目立つ(徳川軍を撃退し、徳川方は、城に一歩も侵入できなかった)。しかし、豊臣方は、武器・弾薬が不足し、期待していた味方に転じる大名などあらわれなかた。和睦後、外堀・三の丸・二の丸の埋め立てられて、大坂城は無防備な裸城となる。
・大坂夏の陣(慶長20年)は、広域で前哨戦が繰り広げられた。総勢16万の徳川軍に対し、豊臣方は7万8千人と半数に及ばす、いずれも劣勢を余儀なくされた。
・真田丸の場所は、比定地は、大阪市天王寺区にある三光神社(現・宰相山)だったことが多い(周囲には「真田山」を冠する地名が多くみられる)。しかし、近年の研究では、神社より西側の大阪明星学園付近であることが指摘されている。