「漱石、名のない猫の物語」


・月日:11月10日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:浅田隆先生(奈良大学名誉教授)
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夏目漱石(1867−1916年)
東京生まれ。本名・金之助。東大卒業後、松山中学校へ赴任し、次に熊本の旧制五高へ赴任。その後(1900年)、ロンドンへ官費留学(2年)。帰国後、旧制一高の教師に赴任、兼ねて東大の講師となり、1905年(明治38年)、『吾輩は猫である』を発表し、大評判になる。その後、数々の小説を発表。代表作は、『坊ちゃん』『草枕』『三四郎』『それから』『行人』『こころ』などがある。

『吾輩は猫である』
・漱石の処女作。長編小説。1905年『ホトトギス』に連載、全11章。
・主な登場人物…「吾輩」(主人公のオス猫)、「珍野苦沙弥(くしゃみ)」(珍野家の主人。中学校の英語教師)、「迷亭」(苦沙弥の親友で、金縁眼鏡の美学者)、「水島寒月」(苦沙弥の門下生で物理学者)、「金田夫妻と富子」(珍野家の近くに住む金持ちの実業家。妻は鼻子、娘は富子。寒月と富子の縁談話。)、「おさん」(珍野家の下女)など。
・主人公のオス猫は、自分のことを「吾輩」と呼び人間を観察している。
・猫仲間…車屋の「黒」、隣の「三毛」、筋向いの「白」。


作品(抜粋)
作品冒頭(右の資料を参照)
吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめしたところでニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここではじめて人間というものを見た。…(以下略)」
珍野苦沙弥評
「主人は苦沙弥といって、職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に入ったきり殆んど出て来ることがない。家の者は大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかの如く見せている。…彼はよく昼寝をしていることがある。時々読みかけてある本の上に涎をたらしている。…教師というものは実に楽なものだ。人間と産まれたら教師になるに限る。…(以下略)」
猫の人間批評
「…吾輩の尊敬する筋向いの白君などは逢うたびに人間程不人情なものはないと言っている。…隣の三毛君などは人間が所有権ということを解していないといって大いに憤慨している。元来我々同族間では目刺しの頭でも鰡(ぼら)の臍でも一番先に見つけたものがこれを食う権利がある者となっている。…彼らはその強力を頼んで正当に吾人が食い得べきものを奪って済ましている。…いくら人間だって、そういつまでも栄えることもあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。」

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「猫」をめぐる漱石の言葉
(1)『吾輩は猫である』上篇自序
「ホトトギスに連載した続き物である。もとよりまとまった筋を読ませる普通の小説ではない。…此の書は、趣向もなく、構造もない文章である」
(2)文学談
「最初虚子君から〈何か書いてくれ〉と頼まれて、一回書いた。文章会で朗読したら、喝采を博し、虚子君に〈ぜひ書け書け〉とせがまれて十一回と長くなりました。」

「猫」の批評
小林信夫「吾輩は猫である」の笑いの分析
「吾輩は猫である」は、たいていの人が一度は読む。…中年に達した人達に「猫」はどんな小説立ったかと問いかけると−面白かったことは面白かったけれども、もう憶えていない。」…はっきりした筋がない。筋がないのがこの小説の第一の特色。」
江藤淳「「猫」はなぜ面白いか」
「吾輩は猫である」を傑作にしているのは、ほかならぬ「無性格」、「無構成」、「無発展」、「底の浅さ」など諸要素ということだ。

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**あとがき**
・長編『吾輩は猫である』は、漱石の日常生活に起きた小さい事件を気軽に作品の中に取り入れている。また、さまざまな人物を通じて、人生と社会に関して、さまざまな意見を述べている。
・猫から眺めた人間の世界を描く設定は、型破りで新鮮である。
・漱石は教師がイヤでイヤでしょうがなかった。(漱石は2年留学後、4年間教師。教師は拘束されていると感じたようだ。
・漱石の人間観察。写生文家(事実を客観視)の態度は、両親が児童に対するの態度である。無慈悲ではない、冷酷でもない、むろん同情がある。…たいていの場合、滑稽の分子を含んだ表現となって文章の上にあらわれる。
・猫はつまらないもの。猫から見て、人間はつまらないものである。…漱石は、自分自身を滑稽化している。
・漱石は、権力を持っているもの、金力で好き勝手にしているものが大嫌い。
・漱石家庭の日常の一端も書かれている。…「ジャム」、「酒、「子供たちと砂糖」、「妻とのあり方」。
・漱石は、落語や講釈を好み、子供のころからよく寄席に通った。空疎な会話の滑稽さなどは落語の影響があると指摘する意見も多い。

*ブログの作成は、限られたスペースにわかり易くまとめ上げて書くことが面白い。−この「吾輩は猫である」は、色々ありすぎて、まとめようがない。まとめられなくて時間ばかり過ぎていった。