「五条野丸山古墳と梅山古墳(現欽明陵)を考える」


・月日:11月29日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:白石太一郎先生(近つ飛鳥博物館館長)
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欽明陵はどこか
・欽明天皇(509?〜571年)は、第29代天皇。父は継体天皇、母は手白香皇女(たしらか)であり、この天皇の時世に仏教が伝来した。この天皇は、安定した政権基盤を築いた天皇と評される。
・欽明陵がどの古墳にあたるのかについて、長年にわたり論争が繰り広げられており、まだ決着がついていない。
五条野丸山古墳(奈良県橿原市五条野町・見瀬町)
丘陵西端に築かれた、奈良県で最大、全国で第6位の規模を誇る大型の前方後円墳。墳丘長318m、6世紀後半築造。埋葬施設の横穴式石室は全長28.4mで、全国第1位の規模。刳抜型家形石室が2基(手前が6世紀後半、奥側は7世紀初め頃)。後円部の1部が陵墓参考地に治定されている。埴輪もない。葺石もない。
平田梅山古墳(奈良県高市郡明日香村平田)
東西にのびる尾根西端の南側斜面を削平して6世紀後半築造。大型の前方後円墳。墳丘長140m。この古墳は、宮内庁により欽明陵として治定されている。大量の葺石。


文献史料(右の資料を参照)
*『日本書紀』欽明天皇三十二年四〜九月条
「欽明天皇、571年の没した後、河内古市での殯(もがり)の後に、檜隈坂合陵(ひのくまのさかひのみささぎ)に葬りまつる。」
*『日本書紀』推古天皇二十年二月条
「612年、皇太夫人堅塩媛(きたしひめ)を檜隈大陵に改葬し、軽の巷(かるのちまた)にたてまつる。」(堅塩媛は、欽明天皇の皇后であり、推古天皇の母である。夫婦合葬。)
*『日本書紀』推古天皇二十八年十月条
「620年に、葺石(砂礫を以て檜隈陵の上に葺く、域外に土を積みて山をなす)の記事がみえる。」→欽明陵治定の拠り所となっている。
*『日本書紀』皇極天皇二年九月条
「皇極天皇の母が薨去された。.皇祖母命を檀弓岡(まゆみのおか)(明日香村平田)に葬りまつる。」(延喜式にみる吉備姫王の檜隈墓は、檜隈陵域内に所在すると記録されている。)
*『今昔物語集』巻第三十一、第三十五
「1702年、欽明陵の石の鬼形が、平田梅山古墳の南側で掘り出された。」→欽明陵治定の拠り所となっている。


欽明陵の所在地についての長い研究史(諸説紛々)
[ 森浩一]…五条野丸山古墳が欽明陵説。平田梅山古墳は蘇我入鹿・蝦夷説。
[和田萃]…平田梅山古墳が欽明陵説。文献史学から推古紀二十八年の記事(大量の石)、『今昔物語集』(猿石、欽明陵にかかる説話)を引用。五条野丸山は宣化陵説。
[小澤毅]…(三重大学)。和田萃説。五条野丸山は蘇我稲目説。
[高橋照彦]…(大阪大学)。五条野丸山が欽明陵説。梅山古墳は、敏達のために作られた説(何らかの事情で、敏達は埋葬されていない。磯長谷に敏達陵)。
・平田梅山古墳は、檜隈に含まれる地域に所在する。欽明陵は『日本書紀』には、『檜隈坂合陵」とある。「坂合」の読みは「さかひ(い)」で、「境」や「堺」という同音異字で表現されることがある。記紀には、軽境崗宮など、軽に「境」が存在していた。五条野丸山付近が「境=坂合」と呼ばれていた。(坂合は平田とは区別される地域にあった。)
[白石太一郎]…五条野丸山古墳は、どう考えても大王墓(欽明陵)であろう。平田梅山古墳は、蘇我稲目であろう。

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**あとがき**
・日本の古墳は、中国の墳墓のように墓主の名前を記した墓誌が出てこないので、被葬者の問題は、どうしても残された間接的な文献史料に頼らざるを得ない。
・五条野丸山古墳と平田梅山古墳は、直線距離にして1kmも離れていない、近接した距離に立地しており、ともに6世紀後半頃に築造された前方後円墳。五条野丸山古墳が明らかに格段の規模を持っている。
・蘇我稲目は、欽明朝に大臣となっていたとされる有力な人物で、蘇我馬子の父に当たる。稲目の娘である堅塩媛やか小姉君は、欽明の后となっており、その皇子や皇女が後に、用明、崇峻、推古として相次いで天皇になる。
・天皇陵が所在するとされる地域の中で、最大の古墳を天皇陵にあて、天皇陵以外では、当該地域の有力層(古代豪族、氏族)のトップを挙げるのが定石。
・「蘇我氏は外戚として大きな力を持っていたが、自分の墓を、欽明陵よりも大きい古墳を造るのは矛盾する。」(白石先生)
・五条野丸山古墳は、葺石・猿石の問題が残る。
・欽明陵はどの古墳かという問題は、まだまだ説明しなければならないことが多くある。