・日時:12月22日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師・吉村稠先生(園田学園女子大学名誉教授)
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**前回の復習(向田邦子の〜人と作品の魅力〜)**
・1929年(昭和4):向田敏雄・せいの長女として東京都生まれ。父の仕事の関係で、宇都宮・東京・鹿児島・高松に住む。実践女子大学国文科卒。
・映画雑誌編集者を経て、ラジオ・テレビ番組の脚本家として活躍。『森繁の重役読本』(ラジオ)、『だいこんの花』・『寺内貫太郎一家』・『時間ですよ』(テレビ)など。
・主な作品:『父の詫び状』、『あ・うん』、『夜中の薔薇』、『女の人差し指』、『思い出トランプ』(1980年、直木賞受賞作)、など。
・1981年(昭和56)8月、台湾旅行中に飛行機事故で急逝。享年52歳。
【向田邦子文芸の特徴】…「昭和の香り」(昭和10年代の庶民的な家庭を映し出し、日常些事の中で展開する人情の機微を浮き彫りにしている)。「大人の男・女」(清濁をもちあわせる大人の男、大人の女を描く)。
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〇向田邦子の恋と恋文
◆非業の死で明らかになった、作家向田邦子の《恋》
・昭和56年8月22日、台湾高雄に行く途中で、乗り合わせた飛行機が墜落するという全く予期しない事故で命を落とした。これといった遺書、伝言の類はなし。
・「茶封筒が見つかる」…昭和56年初秋、妹たちが邦子のマンションの部屋に残っていた遺品整理のときに、茶封筒が見つかり、保管を和子に任された。→そして、歳月は流れ、死後20年目の平成13年の春に、和子は思い切って茶封筒を開けてみた。
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それが『向田邦子の恋文』 (平成14年、妹和子のエッセイを添えて出版)。
◇彼はN氏と呼ばれていた。「N氏の日記」、「向田邦子からN氏宛の手紙」、「N氏から向田邦子宛の手紙」が残っていた。
・N氏の状況…邦子とは十三歳差、妻子がいた、記録カメラマン。脳卒中に倒れ、右足が不自由になって、カメラマンの仕事ができなくなり、向田が生活の面倒をみるようになっていた。
・身体の不自由なN氏への邦子の心使い。パートナー、アドバイザーとしての睦まじさ。
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〇向田邦子の恋は、ほとんど「お宮入り事件」そのもの。(吉村先生)
・「私はどうでもいいことは、かなり率直にいうのね。でも人の渡せない部分ってあるのよ。たとえば男とか、ささやかな本心とかね。そうやすやすと座談会なんかでいえるか、ってところがあるのよ。(笑い)[(原田節子との対談「クロワッサン」44号、昭和54年より]。…向田は語らないことは秘めていた。
・N氏は、体をこわして母上のお宅の離れに独りで暮らしていた。.二人は、3日もあけずの逢っていたこと。たいてい、姉が仕事を終えると、夕方彼の家に行って、夕食を作って一緒に食べてから向田の家に帰るようになった。N氏のやさい眼差し、邦子への思いやり。邦子は一途だった、ほかに心を動かすことはなかった。家庭に打ち明けることもなく、誰にも知られることもなく、邦子の秘め事は続いた。
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向田邦子の恋は、何故か今日まで、詮索され、暴き立てられていない。永久に「お宮入り事件」(迷宮入り)である。
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**あとがき**
・『父の詫び状』…[祖母が亡くなった通夜の晩、「社長がお見えになった」という声がした。祖母の棺の側に座っていた父が、客を蹴散らすように玄関に飛んでいった。式台に手をつき入ってきた初老の人にお辞儀をした。それは、お辞儀というより平伏といった方がよかった。…初めて見る父の姿であった。物心ついた時から父は威張っていた。地方支店長という肩書もあり、床柱を背にして上座に座る父しか見たことがなかった。…高等小学校卒業の学力で給仕から入って誰の引き立てもなしに会社始まって以来といわれる昇格した理由を見たように思った。葬式の悲しみはどこかに消し飛んで、父のお辞儀の姿だけが目に残った。私達に見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険契約の成績が思うにまかせない締め切りの時期に、八つ当たりの感じで飛んできた拳骨をも許そうと思った。」−父の二つの顔が語られる。すぐに怒鳴り手を挙げる横暴な家長としての顔、もう一つは母の手一つで育った貧しい少年時代を過ごし、高等小学校卒業の学力で、誰の引き立てもなしに飛躍的に昇進した父の顔。父を美化することなく描いている。
・森繁久彌と向田邦子…向田の才能を評価していた森繁は、ラジオ番組『森繫の重役読本』の脚本に彼女を抜擢する(1回僅か5分のディスクジョッキーを森繁が語る。この番組は7年間、2千回を超える長寿番組yとなった)。続いて、TBS『七人の孫』の脚本を担当したことで、彼女は一躍新進気鋭の脚本家になった。(昭和39年(1964)、邦子35歳のとき)。
・『時間ですよ』、『寺内貫太郎一家』にみるバラエティ・ドラマのような形態を、演出家久世光彦との共同作業で創る。
・昭和50年、絶好調の時、乳癌を発病して入院。血清肝炎を併発してペンを持つ右手が利かなくなり不幸に襲われた。そこへ『父の詫び状』を書く。
・新分野に挑戦して、『思い出トランプ』(『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』の三作)で第83回の直木賞受賞。水上勉、山口瞳らが強力に推薦したらしい(候補作品は連作短編でまだ完結しておらず、授賞を見送ろうとする委員もいた。)
【参考資料】
『向田邦子の恋文』(向田和子著、新潮社、2002年)
**「かごしま近代文学館」(鹿児島市城山町)…鹿児島ゆかりの文学者として、向田邦子の遺品など常設展示。