・月日:1月24日(火)am10〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:笹部昌利先生(京都産業大学助教)
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○清河八郎とは
・天保元年(1830)〜文久三年(1863)。幕末の志士。庄内藩領出羽国清川村の郷士・斎藤豪寿の長男。母は亀代。(地名をとって清河八郎と称する。)
・弘化四年(1847)、18歳で江戸に出て、東条一堂らに儒学を学び、剣を北辰一刀流の千葉周作に入門し、文武を修めた。一方で九州から蝦夷地にわたる旅をして見聞を広め、安政元年(1854)、江戸神田に文武指南所、「清河塾」を開設。
・安政二年(1855)、3月から9月にかけて、母・亀代を連れて西遊へ。
・万延元年(1860)、清河は「桜田門外の変」に強い衝撃を受け、倒幕・尊王攘夷の思想を強める。これを契機に清河塾に憂国の志士が集まる。同年、「虎尾(こび)の会」を結成。発起人は山岡鉄舟ら15名。
・文久二年(1862)、九州の志士と交わり、島津久光の上洛を利用した挙兵を画策するが、寺田屋事件(久光、藩内の尊攘派を弾圧)で同志を失い、清河は江戸に帰る。
・松平春嶽に呈した「急務三策」(1.攘夷の断行 2.大赦の発令 3.天下の英才の教育)を評価された清河は浪士組の結成を建言、幕府に採用され、上洛を控えた将軍・家茂警護のため浪士募集(清河は浪士組の創立者)。→文久三年(1863)2月、浪士組(234名)は将軍を護衛して上洛する。しかし、清河は、幕府に反して尊攘を主張し、近藤勇・土方歳三らと対立。東帰を命ぜられた。…江戸に帰ってから、同年4月13日、江戸麻布一の橋で、清河八郎は暗殺された。享年34歳。
・清河の死後、浪士組は再編され、新選組と命名。→幕末の二つの浪士組。会津藩預かりの新選組と庄内藩預かりの新徴組(江戸市中の警固役。清河八郎が庄内の郷士であったことから庄内藩預かりとなる。)。
*郷里の山形県東田川郡庄内町には、「清河神社」があり、文武両道の神として、清河八郎を祀り、創建は1933年。そして隣接して「清河八郎記念館」がある。
*著書:「西遊草」。
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■ 「西遊草」(さいゆうそう)
安政二年(1855)3月から9月にかけて、母・亀代を連れて、清川村を出発。−善光寺、名古屋、伊勢、奈良、京都、近江、.大坂、.宮島、.岩国、.天橋立、鎌倉、江戸、日光−をめぐる旅行。170日に及ぶ旅の記録「西遊草」は、幕末の旅行事情を知るうえで貴重な資料となっている。
◇安政二年(1855)という年は
・嘉永六年(1853)6月ペリー浦賀に来航。。安政元年(1854)再びペリー来航、3月日米和親条約締結。下田・箱館を開港。→あらたな外国(英・露・仏)との問題。
・安政元年4月、京都御所大火。→火災からの復興、安政二年10月、安政の大地地震(江戸で4千人以上の死者がでる)。
◇この時、清河八郎25歳、母・亀代40歳。
・清河の斎藤家は、醸造を生業とする大庄屋格。…この旅行は贅沢。資産家でないとできない。
・毎日欠かさず日記をつけていた。細かい事(渡し船の船賃や食べ物の値段など)も書き留めている。
・このルートで、旅するのは大変。江戸時代に徒歩で半年間かけて、しかも母親と一緒の旅とは驚き。
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◆「西遊草」−清河八郎の京都見聞記ー(抜粋)
・安政2年6月5日(日本橋より三十国船に乗る)
「淀川の船は天下に名高い。船頭は左右に三人ずつ棹を使いながら船縁を渡る。まるで猿が木の枝を渡るように軽敏で修練の至りである。…上りの船賃は下りの倍である。両岸の堤の上は道路になっているので、たいがいは網をかけて曳いて上る。」…(以下、省略)。
・6月7日(祇園祭礼。本能寺・瑞泉寺・知恩院への関心、左甚五郎の忘れ傘)
「晴天。祇園祭の初日である。…昼過ぎから清水寺に行こうとして三条大橋を渡る。この橋は、豊臣秀吉の命令で石柱を用いて造った。…(中略)。寺町に本能寺がある。明智光秀が主君を殺すという大罪をおかした本能寺の跡は六角辺にある。信長は中興の盟主であったが、人を疑い妬む癖があってついに大業の半ばで滅亡した。…(中略)。東山の大谷知恩院にいたる。洛東第一の寺で、品よく立派な構えは筆舌に尽くしがたい。…置き忘れた傘。本堂は技巧の妙を極め、完璧にできている。しかし、満つれば欠けるのは世の習いであるので、置き忘れたという風にして傘を軒にはさんであるのは有名である。」…(以下、省略)
・6月8日(四条河原夕涼)
「暮れから四条涼み店に行く。酷暑の時期は、格別の賑わいである。…(中略)。四条涼み店は、夏の暑さを忘れることができる。京師第一の奇観、第一の佳勝とすべきであろう。」…(以下、省略)
・6月9日(西本願寺)
「西本願寺にいたる。一向宗の本山で、もと大坂にあったのを、江戸幕府の始まる前にここに移した。本堂・弥陀堂などいろいろの建物があり、東本願寺より遥かに優れて上品である。…(中略)。飛雲閣に来て、太閤のすばらしさを感じている。〈太閤は百姓の賤しい身分から身を起こし、天下統一してその手に収めた。治国平天下を志す者は、思いをここにいたすとき、どうして奮起しないでいられようか〉」…(以下、省略)
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平成28年後期講座(歴史コース)(9月〜1月:全14回講義)は、1月24日で終了しました。
講師の先生並びに受講生の皆様に厚く御礼申し上げます。
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