坂本龍馬と「脱藩」

・日時:4月4日(火)am9時50分〜11時45分
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:笹部 昌利先生(京都産業大学助教)
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**坂本龍馬・関連年表**
・1835年(天保6):郷士坂本家の次男として高知城下に生まれる。
・1848年(嘉永1):(14歳)日根野道場、武術を学ぶ。
・1853年(嘉永6):(19歳)江戸に遊学。北辰一刀流・千葉道場に入門。*黒船来航*。
・1858年(安政5):(24歳)ふたたび江戸に剣術修行。
・1861年(文久1):(27歳)土佐勤王党(武市半平太)に加入。
・1862年(文久2):(28歳)3月、土佐藩を脱藩。九州遊歴、大坂・京都から三度目の江戸へ。12月、勝海舟との出会い(海舟40歳)。
・1864年(元治1):(30歳)長崎・亀山社中(のちの海援隊)を設立。
・1866年(慶応2):(32歳)薩長同盟成立。(薩長同盟を仲介)
・1867年(慶応3):(33歳)11月25日、京都・近江屋で暗殺。刺客は幕府見廻組といわれる。(一ヵ月前の10月13日には二条城で大政奉還。)

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*(右の写真)坂本龍馬肖像(高知県立坂本龍馬記念館蔵)。1867年(慶応3)1月に長崎で撮影(靴をはき、刀は短刀、剃髪なし−龍馬独特のスタイル)。
1.高知城下町(土佐藩の特殊性)
高知城は、市の中心部を東西に流れる鏡川と江ノ口川に囲まれた大高坂山の地に築かれた平山城。関ヶ原の戦いで東軍に属した山内一豊(遠州掛川5万石)は、土佐一国(24万石)を家康から与えられ、10年の歳月をかけて築城した。
・高知城下は城を中心に、山内家臣でも上士の住む「郭中」と、郷士や足軽などが多く住む上町・下町に分かれていた。
2.土佐と「郷士」
①戦国時代の領主・長曾我部氏の遺臣の懐柔策
「長曾我部元親の四国統一を支えたのは、一領具足(半農半士)たち。山内家の支配に抵抗したが、郷士として扱うことにより、体制に取り込んでいる。」
②土地開発のために募集される郷士
「土地開発によって富農になった者や、商人出身者たちも、次第に郷士に取り立てられ、さらに郷士株の売買も許可。」
[複雑な身分差が形成]
「上士」、「陪臣」、「白札」、「郷士」、「下士」、「庄屋」、その他。
3.坂本龍馬は郷士
龍馬は、才谷屋を営む坂本家から分家した郷士坂本家の二男。郷士とはいえ裕福な家。(才谷屋は、坂本家の本家である商家で、質屋のほか酒屋などを営む城下の豪商。)

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龍馬の「脱藩」
「1862年(文久2)3月、脱藩。長州へ赴いた後、九州をめぐり、江戸に下って、8月千葉道場に入る。12月、龍馬は勝海舟と出会い、新しい道を見つけることになる。」
・当時の龍馬には、藩から逃げなければならない切迫した事情というのが、どうも見当たらない。一説には、武市半平太との路線対立から訣別への道を選択したといわれているが、ともかく藩の外に出て活動したかったのではないか。龍馬脱藩の理由には多くの謎が残される。
龍馬の罪
脱藩者を出したにもかかわらず、坂本家に藩から何らかの処罰がされた形跡はないという。龍馬が脱藩した頃は、関所の国境警備はそれほど厳しくない。
・該当する先例は「御関所犯」の条目(関所を通らないで抜けて、出奔した場合は、期間により罰の規定がある。)
(例)3ヶ月以内出奔(城下町ほか四村への立ち入り禁止)。3年以内、5年以内、7年以内、10年以内(追放刑、高知城下より周縁へ)。10年以上出奔(他国に追放)。
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*(右上の写真)桂浜の龍馬像。大正末期、高知県内の青年たちが桂浜の地に龍馬の銅像を建てようと募金活動を開始。1928年(昭和3)除幕。総高13.4m。龍馬像は高さ約5.3m。
**あとがき**
・脱藩は武士の身分を失うだけではなく、重大犯罪であり、捕縛されれば死罪に処されることもあり得た。…と、今まで言われてきた。しかし、脱藩は重罪に違いないが、比較的に短時間で放免され、龍馬に至っては、海舟らの口添えで謹慎で済んだ。それどころか、脱藩の果ての海舟との出会いは、大きな人間像創出のためのプラス要因であった。