「奈良時代の難波宮」


・日時:4月25日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:栄原永遠男先生(大阪歴史博物館館長)
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難波宮には、前期と後期がある。
◆【前期難波宮】[飛鳥時代]孝徳朝(596〜654年)、天武朝(673〜686年)
・645年に蘇我氏を倒した後、孝徳天皇が飛鳥から難波に遷都し、652年(白雉3)完成させた「難波長柄豊碕宮」(なにわながらとよさきのみや)である。それまでの宮から飛躍して、「内裏」の南に「大極殿」(内裏前殿)と「朝堂院」を一挙に成立させた画期的なもので、この配置は、以後、日本の宮殿配置として受け継がれる。
◆【後期難波宮】[奈良時代]聖武朝
・後期は、聖武天皇が、平城京・恭仁京・紫香楽宮と遷都を重ねる中で、726年(神亀3)に再建を着手。732年(天平4)頃にはほぼ完成。744年(天平16)に、一時期であったが難波に都を移した。
前期と後期の遺跡
遺跡としての難波宮の特徴は、ほぼ同じ場所に2時期の遺構が重なり合って存在している。
*下層の「前期難波宮」の建築は、地面に穴を掘って柱を立てる掘立柱で造営し、瓦が出土しないことから板葺か茅葺であったと考えられる。全面に火災の痕跡。
*上層の「後期難波宮」の建物は、前期と違って、主要な建物は、瓦葺で礎石を用いて建てられた。


後期難波宮の古段階・新段階
後期難波宮は、古段階、南・北区画の新段階の二つの段階に分けて考えることができる。
後期難波宮のすがた
・「内裏」…天皇の住まいがあった場所。内裏の周囲は掘立柱・瓦葺きの回廊(複廊)で取り囲まれる。北半分は調査が進んでおらず、全体の大きさは不明。
・「大極殿」…元旦朝賀など重要な儀式を行なう正殿。瓦葺きで、高さ約2mの基壇上に建つ。
・「朝堂院」…大極殿と接続して、中央に広場(朝庭)を置き、周囲に朝堂を配置する。朝堂の数は8堂(12堂が通例)。
後期難波宮の周辺部における大規模な造り替え(いずれも格式の高いことから天皇に係るような施設の可能性がある。)
・「五間門区画」…大極殿・朝堂院の西方に五間門を二つ並べた区画がある。区画全体の大きさは不明。後期造営の初期段階に設置。
・「南・北区画」…内裏の東南に石敷きや築地塀を伴う区画。

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難波長柄豊崎宮の完成以後の難波宮《補足説明》
・朱鳥元年(686):難波の宮室焼失…《東地区は焼け落ちていない》
・文武3年(699):難波に行幸…《持統・文武天皇などが難波に行幸》
・神亀3年(726):知造難波宮事任命(藤原宇合)…《後期難波宮の造営工事は、726年から始まる》
・天平勝宝8年(756):孝謙天皇難波に行幸、東南新宮。…《後期難波宮の周辺部における南・北区画が、「東南新宮」では?》
・延暦3年(784):長岡京に遷都。…《長岡京遷都の際、後期難波宮は解体され、淀川をさかのぼり、長岡京に移築されている。》
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**あとがき**
・前期難波宮が焼失したあと、持統・文武天皇などが難波に行幸していることから、焼き落ちていない建物は.あったと考えられる。
・奈良時代に聖武天皇は、首都平城京の副都として、難波宮を再興。造営は726年(神亀3)から。744年には、都を難波に移した。しかし、その後、短期間のうち、都は、紫香楽宮に移り、さらに平城京へ遷都した。
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★ご案内
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・NHKテレビ:英雄たちの選択「春日局」(5月18日)に田端先生出演。
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