「考古学からみた推古朝」


・日時:5月9日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:白石太一郎先生(府立近つ飛鳥博物館館長)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇6世紀末葉から7世紀前半にかけての推古朝という時代は、前方後円墳の造営が停止されるとともに、国土の大開発や大改革が行われ、仏教文化の本格的受容なども進められた。
1.前方後円墳の終焉と大型方墳・円墳の造営
3世紀中葉から約350年間にもわたって造り続けられた前方後円墳が、一斉にその造営が停止されるのは推古朝初期である。これは、古い首長連合体制と決別し、天皇を中心とする強力な中央集権国家の形成を目指すことを内外に示したものである。さらに東日本の場合、この前方後円墳の終焉は、国造制という新しい地方支配システムの成立に対応するものと考えられる。
(1)畿内における前方後円墳の終末
・橿原市「五条野丸山古墳」−[墳丘長318m、最大の横穴式石室、6世紀後葉、欽明天皇を被葬者とする見方が有力]
・桜井市「珠城山(たまきやま)3号墳」−[墳丘長約60m、6世紀後葉)。葛城市「平林古墳」−[墳丘長約60m、6世紀後葉]、平群町「烏土塚(うどづか)古墳」−[墳丘長約60m、6世紀後葉]など。
(2)畿内における終末期大型方墳・円墳
・明日香村「石舞台古墳」−[方墳、一辺約50m、7世紀初頭、被葬者を蘇我馬子とする見方が有力]など。
・広陵町「牧野(ばくや)古墳」−[円墳、直径約60m、7世紀初頭]など。
(3)東日本における前方後円墳の終末の状況
・東日本における前方後円墳の造営停止時期は7世紀初頭で、畿内より少し遅れるが、推古朝の出来事であった。さらに注目されるのは、7世紀初頭以降になってもある程度の墳丘をもつ古墳の造営を続けたのが、上野全域の中でのちに「国造」が置かれる前橋市の総社古墳群だけに限られる。→「国造(くにのみやつこ)制」とは、畿内王権がそれぞれの地域の有力な豪族を選んで、それにその地域の支配を委ねる地方支配システム。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2.国土の大開発の時代
(1)狭山池という大規模な農業用溜池
堤の下から見つかった築造当初のコウヤマキ製の樋管を年輪年代法によって伐採年代が推古24年(616)と判明。この狭山池の水は、西除川、東除川、丹比大溝、古市大溝をふくめて、南河内における灌漑網の一環として7世紀前半に整備されたと考えられる。(広瀬和雄氏)。
(2)畿内の計画道路網が整備(*右の資料を参照)
中国や朝鮮半島諸国からの使節の来朝を契機に畿内の計画道路網が整備された。考古学的にも下ッ道、丹比道、大津道などの側溝、あるいは上ッ道の盛土中から7世紀初頭の土器が出土。これらから、7世紀初頭には、奈良盆地や大阪平野の計画道路の整備がいっきに進んだと考えられる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3.東アジアの国際情勢と推古朝
首長連合とは.呼べないような体制に変化したことは、地方に巨大古墳がみられなくなるという考古学的な状況からも、文献による古代史研究からも明らかにされている。こうした政治体制の大きな変革だけではなく、各地で積極的に耕地の開拓や灌漑施設の整備が進められたこと、畿内の計画道路網の整備が本格的に進んだこと、さらに仏教寺院の本格的な造営が開始されたのも推古朝。→どうして推古朝になって始まったのか。それは、東アジアの国際情勢の大きな変化によるものである。
・589年、随(ずい)、中国統一(270年ぶりに南北朝に分裂していた中国全土の再統一を果たす)。そして、早くも598年には高句麗を攻める。この隋による中国の再統一と高句麗への侵攻が、朝鮮半島諸国や倭国に大きな衝撃を与えた。この東アジア情勢の大きな変化を受けて、朝鮮半島諸国と同じように倭国もまた、大王を中心とする中央集権的政治体制の整備を急ぐ。
=============================================================
*ご案内*
今月の「文芸春秋」(6月号)に、白石太一郎先生「小山田古墳は蘇我蝦夷の墓だ」が掲載されています。