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・日時:5月11日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:辻村 尚子先生(柿衞文庫 学芸員)
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**前回までの復習(第一回〜第九回)**
元禄二年(1689年)に「おくのほそ道」への道に赴いたのは芭蕉が46歳の時。同行するのは門人の曾良のみの二人旅だった。3月末に江戸をたち、季節は秋も深まった8月末に大垣にたどり着く。その間約150日、全行程約600里(約2400km)。
◆第一回:旅立ち(3月27日〈陽暦5月16日〉)。江戸・深川から千住、草加。→◆第二回:室の八島、日光(4月1日〈5月19日〉)。→◆第三回:那須野、黒羽、雲岩寺。→◆第四回:殺生岩、遊行柳、白河の関(4月20日〈6月7日〉)。→◆第五回:須賀川、安積山、信夫の里、飯塚の里。→◆第六回:笠島、武隈の松、壺の碑。→◆第七回:末の松山、塩竈、松島(5月9日〈6月25日〉)。→◆第八回:瑞巌寺、石巻、平泉(5月13日〈6月29日〉)。→◆第九回:尿前の関、尾花沢、立石寺(5月27日〈7月13日〉)、最上川(6月3日〈7月19日〉)。
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〇第十回…最上川から「出羽三山」、「鶴岡・酒田」、「象潟」、「越後路」
(一) 「出羽三山」 (山形県鶴岡市)(*右の資料を参照)
(概説)「6月3日〈陽暦7月19日〉、羽黒山(はぐろさん)に登った。羽黒権現の別当代にお目にかかり、そして、南谷の別院に泊まった。4日、本坊で俳諧の連句の会が催された。5日、羽黒権現に参詣した。羽黒山に月山(がつさん)と湯殿山(ゆどのさん)とを合わせて、出羽三山といっている。8日、強力(ごうりき)というものに道案内してもらって、月山に登った。山小屋で一泊。夜が明け、朝日が出て雲が消え去ったので、湯殿山に下った。」
◇「有難や雪をかほらす南谷」(芭蕉)(季語:南薫(夏))
(意訳)(この南谷には、まだ雪が残っているのか、暑い盛りのいま時なのに、雪の上でも吹き渡ってきたかのような、さわやかな薫風(くんぷう)が吹いてきて清浄なこの地のありがたさが、ひとしお感じられることだ。)
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(二) 「鶴岡・酒田」(山形県鶴岡市・酒田市)
(概説)「出羽三山の巡礼を終えて、芭蕉は鶴岡(つるがおか)の城下に行き、庄内藩士、長山重行の屋敷に滞在して、俳諧の連句一巻を作った。翌日は、鶴岡から船に乗って酒田(さかた)の港に下った。
・芭蕉は、出羽三山を走った疲れが出て体調を崩す。鶴岡では、腹具合が悪かったのか粥(かゆ)を望み、日中は眠っている。
・酒田は、室町時代から商人の町。東北の生産物を各地に運ぶための重要な港町。裕福な商人が多かった。
◇「暑き日を海に入れたり最上川」(芭蕉)(季語:暑き日(夏))
(意訳)(暑い一日を海に流し込んでくれた、と大河の最上川を称える句で、夕涼みの心地よさを詠む。)
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(三) 「象潟」(秋田県にかほ市)
(概説)「当時、象潟(きさがた)は松島と並ぶ名勝で、芭蕉が楽しみにしていた場所の一つ。敬愛してやまない西行と、能因法師の歌枕の地。まず船で能因島に向かい、能因法師が3年間静かに隠れ住んでいたという跡を、次にその向こう岸に見える島を訪ねて、西行の面影を偲んでいます。…(中略)。入江の広さは縦横それぞれ一里ばかりで、その様子は松島に似通っているが、違ったところもある。《松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし》。芭蕉は、象潟の景色にはどこか憂いをふくんでいると感想をもらしている。」
・象潟は、芭蕉が訪れてから115年後の文化元年(1804)の大地震によって、湖底が隆起したため陸地(水田に利用)となった。
◇「象潟や雨に西施がねぶの花」(芭蕉)(季語:ねぶの花(夏))
(意訳)(象潟に雨が降りしきるなか、ねぶの花が咲いている。それは古代中国の美女、西施(せいし)の憂いのある面影にも似ているようだ。)
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(四) 「越後路」
(概説)「象潟から酒田に戻った芭蕉は、いよいよ北陸道の旅路(日本海側を南下する帰り道)である。聞けば加賀の国府金沢まで百三十里あるということである。鼠の関を越えると、出羽の国から越後の国に歩みを進め、やがて越中の市振(いちぶり)の関に着いた。この間九日ほどかかったが、暑気や雨の苦労で気分がすぐれず、病気まで起こったので、越後路の見聞を道中記に書かなかった。」
◇「荒海や佐渡によこたふ天河」(芭蕉)(季語:天河(秋))
(意訳)(目の前の日本海が荒波を立てている。その向こうに横たわるのは佐渡がある。夜空を仰げば、天の川が広がっている。)
・「荒海や」は名句。出雲崎(7月4日)で想を得て詠んだといわれる。省筆でつづられた越後路の旅憶は、この一句にすべて語りつくされている。
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**あとがき**
・芭蕉の足跡を見ると、各地に俳人がいてネットワークができていたようである。藩士や藩の侍医や富裕な商人など、各地で俳人たちと歌仙を巻いたりしている。地方の文化も高かったと言える。
・『おくのほそ道』は、推敲に推敲を重ね、旅から5年がたって、元禄七年初夏に完成した。