『兼見卿記』に見る明智光秀・細川藤孝・吉田兼和の絆


・日時:5月18日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:田端泰子先生(京都橘大学名誉教授)
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明智家、細川家、吉田家とは
(1)明智家
・美濃の土岐家支流。
・明智光秀は、越前の朝倉義景に仕え、ついで織田信長に仕える。
・光秀、天正10(1582)年、本能寺の変。
(2)細川家
・細川藤孝(ふじたか)は、本姓三淵氏。細川家の養子となり、足利氏、信長、秀吉に仕える。
・秀吉の重臣となり丹後田辺城主。
・藤孝の息子・忠興は、関ヶ原の戦いでは、東軍(家康側)に属する。
(3)吉田家
・京都吉田神社の神主(かんぬし)を平安期より代々務める吉田神道の家柄で、朝廷とも親交があった。
・吉田兼和(かねかず)(後の兼見(かねみ))…「唯一神道」を継承・発展させる。連歌・茶湯・絵画に及ぶ広い趣味を持つ。
『兼見卿記』 (かねみきょうき)を書き残す。…この日記は、家職継承のために書き残す。「神事」・「政治情勢」(信長、秀吉の動静など)・旅行した時の紀行・世間の見聞・文芸(連歌、能楽)など多方面の記事が含まれ、安土桃山時代の重要資料。

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明智・細川・吉田 三家の結びつきと友情
◇誕生年
・享禄元(1528)年?明智光秀誕生
・天文三(1534)年 細川藤孝誕生
・天文四(1535)年 吉田兼和誕生
*信長誕生(1534年)、秀吉誕生(1537年)、家康誕生(1542年)
『兼見卿記』を読む
◇永禄11年(1568)…足利義昭、信長の岐阜城に入る。信長の「奏者」光秀と義昭の「臣」藤孝が尽力。【光秀と藤孝の出会い】。
◇元亀元年・二年(1570、71年)…信長、浅井・朝倉を討ち、「比叡山焼打ち」。光秀は近江国滋賀郡を拝領し、坂本城を築城。光秀は京都と坂本を管轄。【この頃に、光秀と兼和が出会い】
◇元亀四年(1573年)…光秀の坂本城内において連歌の会。(光秀の坂本城に集う常連は、藤孝、兼和、連歌師の里村紹巴、茶の湯の津田宗久ら。)
◇天正四年(1576年)…光秀「以外所労」により帰陣。曲直瀬氏の治療を受ける。兼和が見舞う。藤孝と兼和が交流。【明智家と吉田家は政治面をきっかけに広く親交。細川家と吉田家は文化の面で親交。】
◇天正六年(1578年)…細川忠興と明智玉子(細川ガラシャ)の婚姻。兼和は坂本城を訪れ、結婚祝いに茶碗を送る。藤孝は兼和を訪問。忠興と玉子の婚姻により三家は固く結びつく
◇天正七年(1579年)…12月「荒木村重事件」(村重が妻子を城に残して逃亡。信長は、荒木一族(婦女子を含めて)の大殺戮。)
◇天正八年(1580年)兼和はこの年4回、光秀を訪問。光秀は丹波経営に専念。藤孝は信長から丹後を拝領。
◇天正九年(1581年)…2月信長の「馬揃え」、光秀は奉行。4月藤孝・忠興の招きで、光秀は連歌師の紹巴と宮津へ、天橋立を遊覧し、連歌と茶を楽しむ。


天正十年「本能寺の変」(『兼見卿記』を読み解く)
・3月:信長に従い信州・武田攻め。光秀、従軍す。兼和より「祓」と「ゆかけ」(弓を使用する皮の手袋)。
・5月:光秀は家康の接待を途中でやめ、信長の命で中国出陣。
・5月26日:光秀、坂本城を発ち、丹後亀山城の居城へ、途中愛宕山で連歌。
・5月29日:信長入京し本能寺へ。
・6月2日:(本能寺の変)。光秀、本能寺で信長を討つ。その後、光秀が安土城を目指すのを知ると、午後2時頃、粟田口まで馬で駆けつけ、光秀と会い、所領のことを頼む。
・6月7日:兼和は朝廷の「御使」として光秀が滞在していた安土城を訪問。
・6月9日:光秀上洛し、兼和邸で禁裏・親王に銀子などを寄進。兼和は夕食を差し上げる。
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**あとがき**
〇『兼見卿記』の謎…兼見の日記である『兼見卿記』には、「天正十年」(1582年)の巻きが二種類ある。正本と別本である。
・本能寺の変とその後の光秀の敗北によって、不都合が生じて、その年の元旦からの日記を書き直したのである。〈六月十二日〉で終わっている別本のほうがもともとの日記。年末の〈十二月〉まで記されている正本は書き直されたものである。
・〈六月十二日〉で終わっている日記を封印して隠したが、焼却しなかった。そのことが後世「別本」として残り、今日まで伝わった。(別本は、本能寺の変の直後のありさまが、書かれている。)
〇本能寺の変の約1年前の天正九年4月に、藤孝・忠興父子と光秀らが天の橋立に遊び、そこで連歌の会。しかし、変後、光秀は永年の盟友であった細川藤孝と忠興に書状を送り、共に立つことを促したが、細川父子はついに動かなかった。
・光秀と細川の盟友関係は15年近く続いたのであるから、光秀の書状が細川家文書の中にたくさんあってしかるべきだが、ほとんど残っていない。