・日時:9月5日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:天野忠幸先生(天理大学准教授)
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**前回の講義「戦国期の女城主」(H29年3月)の復習**
今年の大河ドラマ「おんな城主 直虎に関連して、2回講義。前期は「戦国期の女城主」について。
・[井伊直虎」:天文4年(1535)〜天正10年(1582)。戦国期の井伊家は、遠江の井伊谷という地域を治める地頭職で、小さな勢力。直虎は、井伊直盛の家に、一人娘として生まれる。→井伊家の男子がことごとく死亡(暗殺・討死)という事態が起きる。→次郎法師(直虎)を当主にして、直政(2歳)の後見人として井伊家を託される。
・戦国期の女城主…戦国時代、家を存続させていくうえで、後家にそれなりの権限を持たせていた。家督の決定権を握る場合もあったし、跡取りが決まるまでの家父長権を握ることもあった。戦国時代の女城主は、家督も財産も継承。
・[寿桂尼(じゅけいに)]−駿河・遠江の二か国の戦国大名だった今川氏親に嫁いできた。氏親の死後、今川家の補佐役として見守る。1536年家督争いで、自分の子である五男(義元)が家督を継承(義元は、1560年の桶狭間の戦いで信長に討たれる。)…武田信玄は、寿桂尼を恐れて、寿桂尼が死ぬまで動かず。1568年3月に寿桂尼死去。同年10月信玄は駿府を占領。[女城主−赤松洞松院尼、立花誾千代は、省略。]
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〇徳川家の大黒柱・井伊家の活躍(*右の資料を参照)
1.国衆・井伊家の苦悩
・井伊家の初代共保(ともやす)は、寛弘7年(1010)正月、井戸から誕生したという。
・井伊家の継承…戦国時代、今川氏(駿河)、武田氏(甲斐)、北条氏(相模)がしのぎを削る狭間で、井伊家は滅亡寸前に追い込まれる。→井伊家第20代直平(なおひら)は中興の祖。(今川氏に抗って戦わず。存続の道を繋ぐため、今川氏に恭順。)
・井伊家の男子がつぎつぎと死亡(暗殺・討死)…直平の二男直満、三男直義は暗殺。直盛、桶狭間に死す。直親(虎松の父)、掛川に死す。直平死去。⇒井伊家の家督を相続すべき男子は、直平の死ですべていなくなった。
・次郎法師(直虎)を当主にして、虎松の後見人とし、井伊家を託す。
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2.赤鬼・井伊直政(*右は、井伊直政画像(桃山〜江戸時代初期)、本館蔵)
**井伊家第24代直正—永禄4年(1561)〜慶長7年(1602)
・天正3年(1574):虎松、徳川家康へ出仕。家康、虎松に万千代の名を与える。
・天正10年(1582):元服し、井伊直政を名のる。家康の養女と結婚。
*直政の家臣団…井伊谷以来の家臣、旧武田家臣の編入、家康直臣。(山県昌景の赤備えや武田の軍法を継承。)→次々と武功をあげると、「井伊の赤鬼」として天下に名をとどろかす。
◆豊臣秀吉との関係
・小牧・長久手の戦い(天正12年(1584))…豊臣秀吉と徳川・織田連合軍。直政は家康の本陣を守る旗本隊、しかし、先陣を切って武功をあげる。家康は戦では勝ったが、秀吉の策略により講和に持ち込まれる。→直政は、秀吉にも気に入られる。秀吉は、直政の武力・政治的手腕を高く評価し、従五位下・豊臣姓。
◆関ヶ原の戦い(慶長5年(1600))
・9月15日の行動…家康の四男松平忠吉とともに、福島正則と先陣争い。島津義弘軍と戦い負傷(鉄砲傷)。
・戦後の役割:黒田長政と共に西軍と戦後処理。大坂には、無傷で残った毛利軍がいる。→毛利輝元を大坂城から退去など。
・直政は、近江佐和山18万石を与えられる。軍功だけでなく、政治力が評価。関ヶ原に至るまでの諸将の味方への取り込みから戦後の交渉まで、重要な役をこなす。
・慶長7年(1602)直政、死去。
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3.赤牛・井伊直孝(*右は、井伊直孝画像(江戸時代)、清涼寺蔵)
**・第25代直孝[天正18年(1590)〜万治2年(1659)]
◆直政の跡継ぎ問題
・直政の長男直継(なおつぐ)は、彦根城を築城。(慶長8年(1603)〜慶長11年)
(慶長11年(1606)、彦根城に入城し、ここに、明治まで続く井伊家の近江・彦根藩主としての歴史が始まる。)
・病弱であった直継は、上野安中に「押籠」(慶長18年(1613))。井伊家を分割。家康は、弟の直孝(なおたか)を井伊軍の大将に指名。
◆赤牛・井伊直孝
・大坂の陣−真田丸の戦い(慶長19年(1614)12月)。直孝と前田利常が、真田信繁の挑発にのって、真田丸に突撃。→井伊軍は、500名を超える死者。徳川方の惨敗。⇔家康は咎めず。
・大坂の陣−慶長20年(1615)5月6日、八尾・若江の戦いで木村重成軍を打ち破り、大坂城に向かう。5月8日、山里曲輪に籠もる秀頼と淀殿を包囲して、直孝は自害に追い込んだ。
・この戦いで、5万石加増と従四位下・侍従に昇進。→井伊家は寛永11年(1634)には、譜代大名での中で、最高の30万石に。
・直孝がやっていたことが、「大老」という役職になる。直孝の役割を継承したものが大老。元禄から幕末まで大老になったのは井伊家のみ。
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**あとがき**
・井伊家は、1000年前の平安時代にルーツをもつ。しかし、決して順調ではない井伊家の歴史。井伊谷時代は、弱小国衆の悲哀、複雑な家督継承、一族・家臣団の分裂。
・戦国時代は、領地(知行)をもらうことは、軍功をあげることが第一。