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日時:10月12日(木)午後.1時半〜3時半
会場:すばるホール(富田林市)
講師:辻村尚子先生(柿衞文庫学芸員)
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**前回までの復習(第一回〜第十回)**
元禄二(1689)年に「おくのほそ道」への道に赴いたのは芭蕉が46歳の時。同行するのは門人の曽良のみの二人旅。平安時代の歌人、西行や能因の歌枕や名所旧跡を辿るのが目的。3月末に江戸を立ち、東北・北陸を経て8月末に大垣(岐阜)に至る。その間約150日、全行程約600里(約2400km)。
◇第一回:旅立ち(3月27日〈陽暦5月16日〉)。江戸・深川から千住、草加。→◇第二回:室の八島、日光(4月1日〈5月19日〉)。→◇第三回:那須野、黒羽、雲岩寺。→◇第四回:殺生岩、遊行柳、白河の関(4月20日〈6月7日〉)。→◇第五回:須賀川、安積山、信夫の里、飯塚の里。→◇第六回:笠島、武隈の松、壺の碑。→◇第七回:末の松山、塩竈、松島(5月9日〈6月25日〉)。→◇第八回:瑞巌寺、石巻、平泉(5月13日〈6月29日〉)。→◇第九回:尿前の関、尾花沢、立石寺(5月27日〈7月13日〉)、最上川(6月3日〈7月19日〉)。→◇第十回:出羽三山、鶴岡・酒田、象潟、越後路(7月12日〈8月26日〉)。
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〇第十一回…越後路から「市振」、「那古」、「金沢」、「小松」、「那谷寺」、「山中温泉」
(一)「市振」(いちぶり)(新潟県糸魚川市市振)
(概説)「今日は、親知らず子知らずなどの北国一の難所を越えて来て疲れているので、早く寝ていたところ、隣の部屋に、若い女性二人の声が聞こえる。遊女で、伊勢に参拝をするという。…翌朝旅立つ時に、彼女たちは「不案内の旅路なので、ついて行こうと思います。」と、涙を流して頼む。「私たちは途中あちこち滞在することが多いから、とても同行できまい。同じ方向に行く人々の跡をついて行きなさい。神様のご加護で無事に行き着くことができるでしょう」。
◇「一つ家に遊女もねたり萩と月」(芭蕉)(季語:萩と月(秋))
(意訳)(思いかけず遊女も同宿していて、一つ屋根の下に泊まることになった。庭に咲く萩、空に冴える月のように、不思議なめぐり合わせがあったものだな。…なんとなく、なまめかしい遊女と世捨て人のような自分との巡り合わせを象徴しているようだ。)
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(二)「那古」・「金沢」・「小松」
(概説)「市振を出て金沢に向かった。越中の国に入り、黒部川を越え、那古(なこ)の浦を経て、加賀の国に入る。…[金沢]倶利伽羅が谷を越えて、金沢に着いたのは七月十五日。芭蕉は、当地の一笑(いっしょう)に会うことを楽しみにしていた。しかし、一笑は去年の冬に若死にをしていた。一笑の兄が追善の句会で.、芭蕉は一笑の死を悼む句を詠んだ。)
◇「塚も動け我が泣く声は秋の風」(芭蕉)(季語:.秋の風(秋))
(意訳)(一笑の塚よ、鳴動せよ。今ここに君の死を哀惜して慟哭する私の声は、秋風とともにあなたの墓を吹きめぐっていくことだ。悲痛哀切の情を秋風に託して具象化した。)
◇「あかあかと日はつれなくも秋の風」(芭蕉)(季語:秋の風(秋))
(意訳)(季節は秋になったというのに、まだ残暑がきびしく、陽は容赦なく照り付ける。しかし、さすがに吹いてくる風は秋らしい気分が感じられることである)
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(三)「那谷寺」・「山中温泉」
(概説)「小松から山中温泉に行き、旅の疲れを癒した芭蕉は、再び小松に帰る途中、那谷寺(なたてら)に参拝している。[那谷寺](なたでら)境内には珍しい形の岩石がかさなり、特に白っぽい凝灰岩の大岩の奇岩遊仙境が有名。…[山中温泉](7月27日〈9月10日〉)山中温泉の効能は有馬温泉に次ぐほどである。…随行の曽良は病気のため、ここで別れて、芭蕉は一人旅になる。」
◇「行き行きて倒れ伏すとも萩の原」(曽良)(季語:萩(秋))
(意訳)(自分は今、師翁と別れて先立って行くが、病身なので、行き倒れになるかもしれない。しかし、私には不安も後悔もない。今の季節、そこは萩の花の咲く美しい野原であろうから)
◇「今日よりや書付消さん笠の露」(芭蕉)(季語:露(秋))
(意訳)(今日から一人旅になるから、巡礼者が傘に書く「同行二人」の書付を「笠の露」で消すことにしよう。「露」は季語であるとともに、芭蕉の別離の涙の意も含んでいる)
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**あとがき**
・「市振」の章は、紀行中の色っぽい話であるが、芭蕉の「作り話と」いう見方が有力。「遊女」という虚構→曽良の日記には、遊女の記事も芭蕉の発句も記載されていない。(芭蕉は事実にこだわらず紀行文を書いた。文学性を高めるために、旅行後、5年の歳月をかけ、「おくのほそ道」を完成。)