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・日時:10月10日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:市大樹先生(大阪大学准教授)
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〇藤原京の造営過程(長い造営工事)(『日本書紀』『続日本紀』より)
・676年(天武5):「新城(にいき)に都つくらむとす」(第一次新城造営)
・682年(天武11):「造営工事が再開」(第二次新城造営)
・684年(天武13):「天皇、京内を巡行して宮室の場所を定められた」(正式決定)
・690年(持統4):「持統天皇、藤原京の地を視察」
・694年(持統8):「藤原京遷都」
・704年(慶雲1):藤原京造営の打ち切り
◆藤原京は、694年に遷都。新城の建設計画から18年後。710年には平城京に遷都されるので、都の期間は15年で、造営期間の方が長かった。
◆藤原京は、最近の発掘調査で、一辺が約5km四方の正方形に近い形で、大和三山(天香具山、耳成山、畝傍山)を城内にふくむ広大な都市であることが判明した。
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〇木簡からみた藤原京
◆運河から出土した木簡
大極殿の北側から幅6〜10m、深さ約2mもある南北大溝が見つかり、この大溝から木簡などが出土した。…この大溝は、藤原宮造営時の運河と考えられる。
・『万葉集』巻一の「藤原宮の役民の作りし歌」には、藤原の地に宮殿を造ろうとして、近江の田上山で伐採した木材を宇治川に流し、筏に組んで木津川を遡らせた状況が詠まれている。
・運河から出土した木簡…「年紀の書かれた木簡」《壬午年(682)、癸未年(683)、甲申年(684)》。「「陶官」による人の呼び出し状の木簡」、「舎人官」と書かれた木簡」など《さまざまな官司が造営に関わったことを示唆する》。また、造営現場には多くの人が働いたため、集団編成に関わる「列」「部」や「大御飯」の語も見い出される。
・藤原宮の造営は、国家プロジェクトとして実施された。この事を示す天武朝末年頃の木簡が、資材運搬用の運河から出土したということは、藤原宮の造営が天武天皇の時代にまで遡ることを意味する。
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◆朝堂院の溝から出土した木簡(第128次出土木簡)
藤原宮朝堂院の東側には幅約2mの南北溝があり、出土した木簡は、8世紀初頭のもので、最も新しい年紀は、大宝三年(703)であった。…一連の木簡は、「衛士(えじ)」に関するものが多い。(衛士の任務は宮城内の警備であるが、朝堂院東面回廊の造営現場に衛士が投入されていたことは間違いない。)
・大宝三年(703)の木簡の出土により、694年の藤原京遷都の時には、大極殿・朝堂院地区は完成していなかった。
◆『続日本紀』大宝元年(701)正月一日の元日朝賀
元日朝賀は、一年の最初に、天皇が大極殿に現われ、前の広場に整列した官人たちや外交使節から、祝いの挨拶を受けた。大極殿院南門の北側に七本の幢(はたほこ)・幡(はた)が立てられ、元日朝賀の儀が盛大に催された。・・・『続日本紀』には「文物の儀、ここに備れり」(国家の威厳を示すための文物の制度が整った)と記されている。この年は大宝令施行をはじめ、大極殿に加え、朝堂も前年末頃に完成しており、元日朝賀を盛大に催す条件が整った。
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**あとがき**
・藤原京の建設工事が終了したのは、遷都してから10年後。『続日本紀』慶雲元年(704)11月に、「始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百姻(戸)に布賜うこと差(しな)有り」。(工事の終了にともない、布を与えるという報償措置がとられたことがうかがえる。この時点で工事が打ち切られたのであろう。)
・30年ぶりに701年に派遣された遣唐使は704年に帰国するが、その直後、藤原京の造営は未完成のまま打ち切られることになった。唐の長安城に関する最新の知見にもとづき、都城としての藤原京の欠陥が明確に認識された。…藤原京は、南東が高く、北西に向かって下る地形のため、南面する天皇にとってふさわしいものとはいいがたい。また、汚水を含む排水が宮内に流入してしまう。新都として造営した.平城京は、南に向かってなだらかに傾斜する地形に建設。
**参考文献:「飛鳥の木簡−古代史の新たな開明」市大樹著(中公新書、 2012年)