『平家物語を読む』〜平忠度・文武両道の人〜

・日時:12月7日(木)午後1時半〜3時半
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:四重田陽美先生(大阪大谷大学教授)
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**「平家物語」について**
・成立:平家滅亡(1185年)から40〜50年後の頃(1230年頃)に成立。作者未詳。
・構成:全12巻。平家の栄華と没落を描いた戦記物語。
・関係年表:(1118年)清盛誕生、忠盛の嫡男として生まれる。→(1153年):清盛(36歳)、平家の棟梁。→(1156年)保元の乱、(1159年)平治の乱で清盛は平家繁栄の基礎を作る。→(1167年)清盛、太政大臣。…【1180年】4月、以仁王−平家追討の令旨。9月、源頼朝、伊豆で挙兵。→【1181年】清盛逝去(60歳)→【1183年】平家一門(宗盛、維盛、忠度ら)、安徳天皇、建礼門院とともに都落ち。(西国落ち)→【1184年】一の谷の合戦.。

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(%エンピツ%)講義の内容
○『平家物語』巻七−十六
忠度都落(ただのりのみやこおち)
・平忠度は、忠盛の六男。清盛の末弟。1180年(治承4年)正四位下・薩摩守に任じられる。歌をよくしたが、「熊野育ちの大力」でもあった。
・(要約)「薩摩守忠度は、都落ちに際しては、途中で都へ引き返し、和歌の師の藤原俊成(しゅんぜい)に面会を請い、自作の和歌の巻物を預け、勅撰和歌集の選考の入集を願っている。…後に俊成は、「千載和歌集」に「読み人知らず」として歌一首を採用した。
さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな
(意訳)(志賀の旧都(天智天皇の大津京)は荒れてしまったが、長等山(琵琶湖西岸にある山)の山桜は昔そのままの姿だな)

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○『平家物語』巻第九−十四
忠度最期(ただのりさいご)
「薩摩守忠度は一の谷の西の手の大将軍であったが、味方の軍勢百騎ほどの中に囲まれて、少しも慌てずに逃げていく。途中、源氏の岡部忠純が大将軍だと気が付いて、〈あなたはどういう方ですか?。お名乗り下さい〉と申し上げたので、「私は味方だ」といって、振り切ろうとした時、岡部が甲(かぶと)の中の顔を見ると、お歯黒である。源氏の中には、お歯黒をする武将などいないので、平家の公達に違いないと馬を並べて組みついたところ、この様子を見ていた百騎の平家方の武者たちは、寄せ集めの雇われ兵であるので、一騎も助けに駆けつけず、我先にと逃げていった。…熊野育ちの強力で、岡部を押さえつけて三度刀で突いた。しかし、鎧(よろい)の上からなので、軽い傷なので死ななかったのを、取り押さえて首を斬ろうとしたところ、岡部の家来が、後方から駆けてきて、打ち刀を抜き、忠度の右腕を斬り落とした。…もはやこれまでと、左手で、岡部を投げ飛ばし、西に向かって、念仏を唱えているところを、岡部が忠度の首を討つ。…名を名乗らなかったので、誰ともわからなかったが、箙(えびら・矢を入れる筒)に結ばれていた文(ふみ)を解いて見ると、「旅宿花」という題で、一首の歌が書きつけてあった。**「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひの主ならまし 忠度」**〈意訳:旅の途中で日が暮れて、もし桜の木の下に宿ったなら、桜の花が今夜の主となり、もてなしてくれたであろうに〉。…忠度と書かれていたので、薩摩盛忠度とわかったのであった。岡部が忠度を討ち取ったと名乗りをあげると、敵も味方も、「ああ気の毒に、武芸にも和歌の道にも秀でていらっしゃった人なのに。惜しい。」といって、落涙した。
・平家武士のお歯黒…平忠度は、源氏武士に呼び止められ、味方と偽るが、お歯黒から.平家と見破られ、討たれる。
・.平忠度の歌は、「新勅撰.和歌集」、「玉葉和歌集」、「風雅和歌集」、などにも入集。