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・日時:9月25日(火)am10時〜12時
・会場:すばるホール(富田林市)
・講師:市大樹先生(大阪大学准教授)
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〇聖武天皇の関東行幸(*右の資料を参照)
天平12年(740)9月、藤原広嗣の乱がおこった。悪疫大流行の疲弊を背景に、橘諸兄政権への不満を抱いた大宰少弐藤原広嗣が挙兵した。…10月26日、聖武天皇は、「朕は思うところがあって、今月の末にしばらく関東に行こうと思う」と勅(みことのり)を発し、平城京を後にして、まず伊勢の国に向かった。→引き続き聖武天皇一行は、美濃・近江、そして山背の国とめぐり、恭仁宮に入る。
・聖武天皇が8世紀に関東行幸をされているが、これは大和を出発して、伊勢経由で北伊勢に出て、美濃の不破方面から近江に戻る行幸経路である。(関東といっても、鈴鹿の関、不破の関の東に行幸されたという。)
◆関東行幸の3段階
《第1段階》:平城宮〜赤坂頓宮(11月4日〜22日)…伊勢神宮への奉幣。広嗣の乱の経過・余波を注視。
《第2段階》:赤坂頓宮〜不破頓宮(11月26日〜29日)…大海人皇子のルートをたどる。王権の継承を実感・誇示。
《第3段階》:不破頓宮〜恭仁京(12月15日)…恭仁宮を目指す。
・聖武天皇の関東行幸は、あてどない旅と言われているが、正しくは、計画的な行幸であったと思われる。
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○関東行幸への助走
①聖武天皇の時代は、相次ぐ天災・疫病→天皇権威の失墜
・天平6年(734):大地震
・天平9年(737):疫病(天然痘?) 藤原四子の死去(→橘諸兄政権の誕生)
②恭仁遷都…山背国相楽郡。古くは奈良時代初めに、甕原(みかのはら )離宮がおかれていた。
③華厳経・盧舎那仏への着眼
・天平12年(740)2月、難波行幸の際、河内国知識寺に立ち寄って、盧舎那仏を礼拝し、それ以来、盧舎那仏造立の願いを持っていた。
・『続日本紀』天平15年(743)10月辛巳条−「盧舎那仏造立の詔」を発する。
◆聖武天皇は4度も都を遷している。
710年平城京(元明)→740年恭仁京(聖武)→744年難波京(聖武)→紫香楽宮(聖武)→745年平城京(聖武)→784年長岡京(桓武)
・聖武天皇が各地を彷徨し、遷都を続けた天平期後半は、災害や疫病が頻発する不安と動揺の時代であった。
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○聖武天皇の関東行幸と『万葉集』
『万葉集』巻6には、聖武天皇の巡行に際して、伊勢の国の河口、朝明(あさけ)、狭残(さざら)の行宮(かりのみや)、不破の行宮、そして恭仁京での歌をそれぞれ伝えている。(巻6−1029〜1037)。
◇伊勢国に幸(いでま)せる時に、河口の行宮にして、内舎人(うどねり)大伴家持が作る歌一首。
「河口の 野辺に廬(いお)りて 夜の経(ふ)れば 妹が手本(たもと)し 思ほゆるかな」(巻6−1029)
(意訳:河口の野辺に仮屋を営んで幾夜にもなったので、妻の手枕が恋しくおもわれることよ)
◇『万葉集』1033番歌と御食国志摩…狭残(さざら)の行宮にして、大伴家持が作る歌二首。
「大君の 行幸(みゆき)のまにま 吾妹子(わぎもこ)が 手枕まかず 月そ経にける」(巻6−1032)
(意訳:天皇の行幸のままに従って、わが妻の手枕をすることなく月日が経ってしまったことよ)
「御食(みけ)つ国 志摩の海人(あま)ならし ま熊野の 小船に乗りて 沖辺(おきへ)漕ぐ見ゆ」(巻6−1033)
(意訳:天皇の食善に奉仕する国なる志摩の海人であるらしい。熊野の小船に乗って沖の辺りを漕いでいるのが見える)
*天皇が日常的に食する材料〈贄(にえ)〉を献上する志摩海人の姿を詠み込むことは、聖武天皇の支配の正当性を確認する意味でも重要であった。