講座日誌(文学・文芸)③…『平家物語を読む』〜平重衡の罪と罰〜

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日時:3月28日(木)午後1時半〜3時半
会場:すばるホール(富田林市)
講師:四重田陽美先生(大阪大谷大学教授)
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**平家物語**
・成立:平家滅亡(1185年)から40〜50年後の頃(1230年頃)に成立。作者不詳。
・構成:全12巻。平家の栄華と没落を描いた戦記物語。
・四重田(よえだ)先生の講義−『平家物語を読む』は、2011年1月に始まって、今回は18回目の講義です。

*平重衡について *
1157年〜1185年。平清盛と平時子の子。.本三位中将。平氏軍制の中核にあり、反乱追討(源氏追討)に活躍。治承四年(1180)12月には南都攻略の総大将となり、大仏殿などを焼き打ちした(奈良炎上)。…一の谷の合戦で捕虜となり、鎌倉へ送られ、のち奈良(南都)に護送されて、木津川辺で処刑された。(享年28歳)。

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〇平重衡(たいらのしげひら)の罪と罰
「奈良炎上」(南都焼き)
治承四年(1180)12月:清盛は、奈良の討手の大軍を奈良に差し向けた。大将軍は平重衡、副将軍平通盛で、四万余騎。…夜の戦いになって、平重衡の下知で在家に火をつけたところ、真冬の風にあおられて、火は奈良の寺院を焼き尽くした。辺りはまるで地獄のよう。大仏の頭部が焼け落ちて地上にある。御身体は溶解して山のようである。…凱旋した重衡を清盛公だけが喜んだが、建礼門院をはじめ心ある人々は、「悪僧を滅ぼすとも、伽藍を破壊し滅ぼしてよいものだろうか」と、嘆いた。

△治承五年(1181)閏2月、平清盛、熱病に冒されて亡くなる。(清盛死去

◆巻第九「重衡生捕」(しげひらいけどり):寿永三年(1184)2月:重衡28歳
平家軍の副将軍・平重衡は、一の谷の合戦で、味方の軍勢は全員逃げ失せたので、乳母子(.めのとご)の.後藤盛長と主従二騎で西へ落ちていった。…途中、敵の武将・梶原景季(かじわらのかげすえ)の追撃を受け、景季に馬を射られて立ち往生すると、盛長は主君の重衡を見捨てて、鎧につけた平家側の赤い印を引きちぎって捨て、必死で逃げた。…残された重衡は、切腹しようと観念したが、馬を射た景季の捕虜(生け捕り)になった。→後日、主君を裏切った、乳母子の後藤盛長は、人々に「ああ、ひどい盛長だな。あれほど重衡に可愛がっていらっしゃたのに、同じ所で死なずに、憎らしい奴よ」と非難されたので、盛長もやはり恥ずかしそうに、扇をかざして顔を隠したと噂になった。
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**あとがき**
・南都は、以仁王の謀反挙兵のとき、三井寺とともに興福寺が以仁王に同調したこともあり、かねてから清盛は、南都の焼き払いを企んでいた。…大将軍・平重衡は、まさにこれが後の身の終わりを招き、清盛もこの暴挙を犯してのち2か月余りで、熱病で命を奪われる。
・平重衡は、馬を射られたとき、最も信頼していた乳母子にも見捨てられて、自害の直前、生け捕りになった。その後、南都焼打ちの張本人として処刑されることになる。…重衡は捕虜となり、伊豆の国にいたが、奈良の僧侶たちは、奈良の寺を焼いた重罪人として重衡を引き渡せをしきりに申し立てた。奈良方に重衡の身柄を渡すことになる。南都の大衆は重衡の身柄を受け取り、木津川の川原で処刑した。